「自動運転車」は人なら防げる事故を防げるか コンピュータにも強みと弱みがある

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幸いにも、車はスピードを出して走っておらず、運転手も周りに注意を払っていたので、大事になることは防げた。私が運転手に「ありがとう」と口を動かして見せると、運転手は微笑み返してくれた。そして、次の瞬間、ある考えが浮かんだのである。私の息子は、運転手によって守られたのだということを。

このことで、運転することが他人の過ちの埋め合わせに関わる程度について考えることになった。あの日に事故になっていれば、息子(と、私自身)には、ある程度の「落ち度」があったことになる。しかし、落ち度があったかどうかが事の論点であるとは限らない。そして、逆の立場になった場合、自分はあの運転手と同じように落ち度を埋め合わせられるようにしたい。

「車は過ちを起こさない」という考えへの切り替え

私たちの生活の中で、頻繁に起こり得て、死亡につながりかねない過ちを起こしながらも、他人が気づいてくれて、それを補ってくれるという状況はほかに思い当たらない。自動運転車への切り替えというのは、この考えから離れ、「車は過ちを起こさない」という考え方への根本的な動きなのだ。

他人が起こす過ちを補うという同じ役割を、自動運転車が持てるようになるとは思えない。自動運転に対する疑問は、NHTSAが問いかけるであろうもの(たとえば、「このシステムには故障があったのか、それとも、意図に沿った行動をとったのか」)や、NTSBによる疑問(「この車両を運転するシステムに落ち度があるのか」)が中心となるだろう。

が、社会として問いかけられる3つ目の疑問は事実に反するものかもしれない。それは、「もし、人間がこの車を操作していたとしたら、それでも事故は起こっていたのか」という疑問だ。これは、運転するたびにほぼ毎回直面する、他人の過ちや不注意を私たちが補っているという事実を捉えている。

同時に、これからは人間に対しても、同じ問いかけをし始めなくてはならない。「コンピューターがハンドルを握っていたとしたなら、事故は起こったのか」。こうした疑問に答えるにあたり、私たちが直面する難しさとは、無頓着な推論の根本的問題――1つの事故において、2つの異なる条件を同時に審理することはできない――にある。

もう1つの困難は、事故原因を本当の意味で解明する能力がないということだ。人間を原因とする事故は、往々にして恐ろしいもので、運転手の居眠りや、スピードの出し過ぎ、そうすべきではない瞬間に下を向いてしまった、などをある程度、無頓着なものである。コンピューターシステムには、人間に比べて根本的に異なる強み、弱みがあり、将来の事故の中には、把握しがたいものもあるだろう。

自動運転車が関わる事故の統計を積み重ね始めると、事故原因を技術的なもので説明できるようになるかもしれないが、私たち自身が事故を起こすことは想定できない。この変化を受け入れるには、新たな社会契約、すなわち、他人である運転手が私たちの過ちを補ってくれることを頼るのではなく、開発者が過ちを減らしてくれるようになるのを頼ること、が必要になるだろう。

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