医学の素人が12万人救う器具をつくれた理由 「余命10年」娘の病気に挑み続けた夫婦の戦い
娘を救いたい一心で続けてきた人工心臓の開発は断念せざるをえなくなった。そんなある日、筒井さんは病院でバルーンカテーテルの事故が多いことを聞く。
カテーテルとはプラスチックやゴム、金属などで作られた細い管状の医療器具だ。体腔(胸腔、腹腔)や体内の器官(胃、腸、尿道、膀胱、尿管、心臓、血管)などに挿入し、各種の検査や治療などに用いる。バルーンカテーテルはその名のとおり、管の先に細長い風船がついている医療器具で、ガスによって風船部分を拡張・収縮させ、弱った心臓の働きを助ける。
「病気で苦しむ人を助けてほしい」という娘の言葉を胸に
当時、バルーンカテーテルは輸入品しかなく、欧米人より体の小さい日本人もそれを使うしかなく、事故が多かった。
「病気で苦しむ人を助けてほしい」という娘の言葉を胸に、宣政さんは日本初の国産バルーンカテーテルを作ることを目指し、開発を始めた。
その後、高校を卒業した佳美さんが、宣政さんの会社に入社した。この時、彼女は19歳。命の期限と言われた10年目を迎えていた。
一方、バルーンカテーテルの製作はなかなかうまく行かず、試作品がようやく完成したのは、開発を始めてから1年半後だった。
本当の戦いはここからだった。製品化には、耐久試験や動物実験をパスしなければならない。
医療機関の協力も必要だった。ところが、協力を依頼された大学病院の教授は「実績がない」との理由で、一度も試そうとしなかった。それだけではない。宣政さんは研究室への出入りを禁止されてしまった。
そんな時、佳美さんが会社で倒れてしまう。医師から宣告された10年が過ぎ、彼女の体はいよいよ悲鳴を上げ始めていた。
それでも佳美さんは、カテーテルを作る際に必要な、衛生管理者の資格を取るべく勉強を続けた。そして愛娘の前向きに生きようとする姿が、やがて、父にある行動を取らせることになる。
人工心臓の断念から2年が過ぎた1988年12月。宣政さんが作ったバルーンカテーテルは、ついに厚生省の認可を取得した。そして実際に使用され、患者の命を救ったのだ。
これをきっかけに、日本初の国産バルーンカテーテルは、全国の医療施設へと広がった。医療の素人が、不可能だと言われた挑戦に打ち克った瞬間だった。
製品化から2年。1500本ものバルーンカテーテルが売れたのを見届けるように、佳美さんは、静かに天国へ旅立った。23歳だった。
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