50歳「遺体保全」に懸ける男が突き詰める本質 悲嘆に寄り添い、幾多の難関に正面から挑む

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橋爪さんが生まれたのは1967年3月の北海道千歳市。父は祖父の代で興した葬儀社を経営しており、物心ついた頃には葬儀業界にどっぷりと浸かった生活を送っていた。

「家には両親以外に社員さんが4~5人いて、ほかにもパートでお手伝いをしてくれる知り合いが同じくらいいて、それでも手が足りないからと小学校の頃から家業を手伝わされていました。学校から帰ってきたら、道具の清掃とか整理とかとにかく何か指示されて。ドライヤーは(葬儀会場外に飾る)花輪の名札を乾かす道具だと思っていましたからね(笑)」

小学校4年生の頃には、父についていって病院から遺体を搬送する手伝いをしたこともある。家族旅行の際に葬儀の依頼が入ったために両親がトンボ帰りして、旅館に妹2人と取り残されたこともある。病院関係者や旅館の女将からけげんな顔をされたのを今も覚えている。父はとにかく厳しくて逆らえなかった。

実家は航空自衛隊の千歳基地の近くで、小学校の同級生はほかの地域から引っ越してきた自衛隊員の子供が大半。葬祭業という仕事は物珍しく見られた。両親が誇りにしている仕事をけなす気は毛頭なかったが、思春期の頃には、からかわれるし自分の時間も持てない職業につくのは嫌だという思いが募っていた。

ではどんな職業がいいのか? 高校生の頃にピンときたのは新聞記者だ。当時はベトナム戦争の時代で、報道写真家の沢田教一氏やほかの戦争ジャーナリストの活躍に胸が躍った。新聞記者になろう。なら文系だ。理系の特進クラスに進んでいたが、受験直前に文転したためあえなく玉砕。二浪の後、成城大学法学部に入学する。

「当時はいろいろなことを知らなくて、新聞記者なら文系の大学を出なくちゃって妙な思い込みがあったんですよね。文系なら法学部というのも同時に決めていました。法律を通して社会の仕組みを知りたかったんですよね」

実家から離れた東京での暮らしは、家業の手伝いもなく開放感に満ち満ちていた。ただし、子供の頃から染みついている性分はとにかく暇を嫌う。授業のほかに夕方はグランドホッケー部で汗を流し、夜は渋谷でバーテンダーのバイトに勤しむ。部活がシーズンオフになる冬場にはお歳暮のデータベースをひたすら入力するバイトに没頭するなど、卒業するまではとにかく忙しいキャンパスライフを続けた。

就職活動では、複数の新聞社の最終面接まで進んだもののすべて不採用となり、最終的に出版事業とチケット販売事業を展開している株式会社ぴあから内定をもらった。橋爪さんの配属希望は当然出版事業部だったが、辞令に書かれていたのは会員に向けたサービスを行う部署で、後にチケット事業本部に回されることになる。なかなか希望どおりに事が進まない。

しかし、ここで仕事にのめり込む。部署の仕事はコンサートのイベンターなどと交渉して販売計画などを立てるのが中心。目利きと企画力、交渉力があればキャリアを問わず結果が得られる。入社して3年経たないうちに、ブレイク前のスピッツのライブ計画に長くかかわったり、レゲエイベントで新たなチケット販売システムを企画して前年比10倍の観客動員を記録したりと、目に見える成果がついてきた。橋爪さんは「まだベンチャー気質のある頃で、新人の頃からベテラン社員と一緒に扱われたのが楽しかったですね」と密度の濃い社会人生活を振り返る。

父からの電話

その生活が終わりを告げたのは1993年10月のこと。きっかけは会社にかかってきた父からの電話だった。

「話したいことがあるから、2~3日北海道に帰ってこれないか?」

当時はPHSすらなくポケベルが一部で流行っていたくらいの時期で、現在より連絡が取りづらかったのは確かだ。それでも職場に親から電話が来ることは珍しく、父がそんなアプローチをしたことも初めてだった。何事かと思いながら実家に帰った橋爪さんだったが、そこには今まで見たこともないほど興奮した父の姿があった。

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