「人殺しの息子」は、その後をどう生きたのか あらためて北九州連続監禁殺人事件を考える
どんな凄惨な事件について書かれたものであっても、ノンフィクションとして纏められた作品には、何らかの救いを求めて読む人が多いだろう。ただ後味の悪さだけが残るようでは、あまりにも空疎だ。
『消された一家』の場合、DVによる支配構造という特異な状況に理解を示すこと、そして刑務所に入ったあとの緒方純子の心の変化に、著者は僅かな救いを求めている。しかし、それが救いにならないどころか、だからこそ葛藤を感じる別の視点が存在することに改めて気付かされたのが今年の出来事であった。
息子がドキュメンタリー番組に出演
松永と緒方が逮捕された時、別のアパートにいた二人の息子が保護された。長男は当時9歳。そしてあれから15年がたち、その息子がドキュメンタリー番組に出演したのである。それが『ザ・ノンフィクション 人殺しの息子と呼ばれて…』だ。
記憶を辿りながらも、しっかりとした口調で語られる息子のその後の人生は、まさに戦いの日々であった。被害者でありながら、加害者の家族でもあるという事実が、彼に数多の十字架を背負わせる。児童養護施設で育てられ、高校時代はガソリンスタンドで働きながら定時制高校へ。その後、里親の家から家出をしてからは、住所不定の人生が始まる。
今日、明日どう生きるのかという悩みを持ちながら、かつて自分の背中に包丁を突き立てた時の母の表情、死体を解体する時の臭い、そういった記憶の蓄積からも彼は逃れることができない。
後に息子は、父親にも母親にも面会へ赴いている。特に印象的なのが、母親とのやり取りだ。まず嬉しそうな顔をする→どうしているかを聞く→最後は決まって説教をする。毎度のように3つのパターンが繰り返され、そのたびに彼は「今さら、母親づらするなよ。」と感じてしまう。ある時など、「私が死ねばいい?」と言われ、「苦しんで生きろ」と返したこともあったという。
松永の手によって、過去を奪われた母と未来を奪われた息子。母は息子に未来を見て、息子は母に過去を見る。だから一事が万事、話は噛み合わない。ズレを感じながらも何度も母親に会いに行くのは、自分の過去に折り合いをつけなくては、未来を切り拓くことに確信が持てないからなのだろう。
殺人事件というものの理不尽さ、それを背負いながら生きていくことで見える世の中の不条理。そういったものにやるせなさを感じながらも、一歩づつ未来へ歩もうとする息子の背中に僅かながらも救いのようなものを感じることができ、この番組を見て本当に良かったと心から思えたのだ。
なお、番組は12月15日(金)21時からフジテレビ系列にて再放送されるとのこと。
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