50歳フリー「広告写真で稼ぐ男」の痛快な人生 本領は職人、いい仕事こそが次の仕事を生む

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ただ、将来の道筋はまだ漠然としていた。何となくフォトグラファーになりたい思いはあり、卒業後は働きながら夜間の専門学校に通ってカメラの腕を磨こうと考えたが、高3の冬に親から大学進学を勧められたため、大阪芸術大学の写真学科を受験することになる。願書が出せるギリギリのタイミングでの進路変更だったが、無事合格通知が届いた。

あまり積極的とはいえない大学進学だったが、ここでカメラの世界が鮮明になる。「それまでは職業カメラマンって新聞社の写真部くらいしかイメージしていませんでした。だけど、広告系もあるし、アート系も確立されているぞとわかって」

授業がとにかく楽しくて、講義がない日でも毎日通った。高校時代まではあまり勉強に熱心なほうではなかったが、大学の単位表は「優」「良」「可」のうち最も優秀な優で埋め尽くされるほどの成績を収め、3年次にゼミを選ぶ際は競争率など気にすることなく1番人気のアート系研究室を選んで入った。そこからアート系のフォトグラファー=写真作家になりたい気持ちが高まっていくのはごく自然な流れだった。

芸術大学の写真学科を卒業しても皆がその道で食べていくとは限らない。実際、福永さんの感覚では同期で写真の世界に進んだのは3分の1程度だったという。そのなかで福永さんは「30歳で東京・青山に事務所のあるカメラマンになろう」と心に決めていた。だからこそ、あえて通常の就職活動をしなかった。

「カメラ業界のあらゆることを経験したうえで成り上がろうと思って、業界の底辺的なところから入って半年ごとに職を変えてというのをやっていましたね」

卒業式に思い描いていた将来像は写真作家だったが…(写真:福永 仲秋)

アート1本でいくのはやはり厳しい

卒業式に思い描いていた将来像は写真作家だ。しかし、アート系だけで食べているフォトグラファーは国内に片手で数えられるほどしかいないことも情報として知ってはいた。その知識は、複数の職場を経ながら感覚としてだんだんと理解できるようになっていった。アート1本でいくのはやはり厳しい。(産業として成立している)広告写真の仕事にも面白みを感じている。ならば、自己表現としての活動はプライベートでやりながら、食べていくために広告写真の道に進むのが現実的だろう。写真作家はできるときにチャレンジすればいい。

そう気持ちの切り替えがついた頃、人づてに日本デザインセンターが中途採用の人員を募集している話が舞い込んできた。日本を代表する広告制作プロダクションだ。「本当に運がよかったです」と振り返る。

日本デザインセンターではトヨタ自動車の撮影チームに配属となり、同社の敷地内にある専用スタジオで1年の半分以上を過ごす毎日を送った。

まだデジカメのない時代、表紙用の1枚を撮るのに1日以上かかることはザラだった。スタジオに新車が置かれ、午前中の3時間をかけてベストなアングルを探る。最適な画角のレンズを選びながら、被写体の個性が最もよく表現できる構図を決めて、昼らかはひたすらライティングの調整に入る。

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