これらの授業で学んだことは、一流大学に進学し、一流企業に就職し、人生が順風満帆のときにはさほど必要がないものかもしれない。むしろ人生に逆風が吹いたとき、あるいは先行きが見えない五里霧中の状態になったとき、そのありがたみがわかるはずだ。
授業見学後の教師たちとの会話では彼らが授業に込めた思いを存分に聞かせてもらったのだが、文字数の関係で、この連載ではその大部分をカットせざるをえなかった。
そこで、本連載に授業のあとの教師とのやり取りまでを加筆して、1冊の書籍にまとめることになった。『名門校の「人生を学ぶ」授業』(SB新書)である。いわば本連載のノーカット完全版である。これを読めば、16のユニークな授業に込められた、教師たちの深い意図までが明らかになるはずだ。
名門校版「君たちはどう生きるか」
16の白熱授業の中で、名門校の教師たちが生徒たちに共通して問いかけていたものを煎じ詰めればこの一点。「君たちはどう生きるか」である。
吉野源三郎によって同タイトルの名著が書かれたのは1937年。多感な時期の青少年が立ち向かうべき問いは、戦前から変わっていない。その問いに真剣に向き合うことなく、エリートビジネスマンのまね事のようなカタカナのスキルばかりを身に付けたところで、荒れ狂う時代の波の中で自分の足で立ち続けるかどうか、おぼつかない。
今、その名著が漫画になってリバイバルし、ブームになっているのもうなずける。あまりに変化が激しく、無自覚のうちに時代の波にのみ込まれかねないこんな世の中だからこそ、自らの進むべき方向性を見失わないために、その問いが重要なのだ。簡単に答えの出せる問いではない。それでいい。その問いを問いとして抱え続けることさえできれば、ひとは自由になれる。
自由とは、つねに「君は何を感じるんだ?」「君は何を考えているんだ?」「君はどこへ行きたいんだ?」「君はどうしたいんだ?」と尋ねられ続けることである。言うなれば自由とは、それ自体が無限の問いの集合体である。問いを問いとして抱え続ける力がなければ、自由には耐えられない。
その問いかけ自体は名門校でなくともできる。社会を通じて大人たちが子どもたちにつねに問いかけなければいけない問いだ。みんなが『君たちはどう生きるか』の主人公コペル君にとっての「おじさん」にならなければいけない。そのためにはまず、大人たちこそがその問いから逃げてはいけない。いやむしろその問いは、大人にこそ向けられているのである。
名門校の教育から、大人こそが忘れかけていた大事な何かを学べるのではないだろうか。
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