母上の心が家族に向いていないのに(しかもその方向がとんでもない所)、娘が他人の目を気にして母親を母親として遇するのは無理があります。他人って、どなたとどなたですか? 気にしなくてよい“他人”だと思いましょう。
もちろん、自由な不倫、浮気を容認する風潮が出てきているのは私も知っています。人間の生き方は多様で、他人に迷惑をかけていないかぎり、特定の価値観を押し付けてはいけないとは重々理解しているつもりです。しかしそれでも、「家族が傷つくことより、個人の欲望を優先させた」という意味で、「母親扱いされる資格」を失っていると思います。
母性は育てるもの
フランスの作家であり、20世紀フェミニズム運動の象徴的存在だったシモーヌ・ド・ボーヴォワールの有名な言葉に、「人は女に生まれるのではない。女になるのだ(注:そのように育てられるのだという意味です)」という有名な言葉があります。女の子なら人形、男の子なら車のミニチュアが与えられるというふうに仕向けられるだけで、最初から女の子なら、車の玩具より人形が好きで生まれてくるわけではない、等の主旨だったと記憶しています。
私は親となった人が不倫騒ぎを起こすと、必ずこの言葉を思い出します。母・父性も、子どもの成長に合わせてそのかかわりようで(精神面でも)、強くもなり弱くもなる部分があるように思います。
たとえば最近の、不倫が取りざたされている国会議員の場合です。“一線を越えたか否か”が問題になりましたが、私は小さな子どもをもつ母親が、説明できない理由でそれほど外泊しても困らない、家族のあり方が気になりました。
普通は、仕事で遅くなっても必ず帰るという親としての愛情や心遣い、責任感が(もちろん、物理的に無理な場合を除いて)、子どもに安心感を与え、その子どもから力を得、それらの愛情の交歓で母・父性や、親子の絆が育まれ、強まっていくのだと考えます。
親としての責任感こそが、母性と親子の絆の基本だと思います。私の友人にその夫や姑に、妻として嫁として、小説顔負けの過酷な扱いをされた人がいます。今の人なら100回家出しても足りない環境でしたが、彼女をそこに引き留めたのは、熱心で丁寧な育児でした。
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