幕末最強「庄内藩」無敗伝説を知っていますか 薩長も恐れた東北の「領民パワー」

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新政府軍は外国軍に協力こそ求めなかったが、坂本龍馬が熟読し、幕府の海軍が遵守した国際法「万国公法」に通じていなかったのである。

会津藩降伏の4日後に降伏

庄内藩は、しだいに同盟諸藩が新政府軍に恭順・降伏していくと、孤立を恐れて秋田戦線から退却する。庄内藩が降伏したのは会津降伏の4日後、明治元(1868)年9月26日のことで、奥羽では最後に新政府軍に屈している。勝ち戦続きで、領内への侵攻を許さなかった末の恭順である。

庄内藩は果敢に新政府軍に挑み続け、ついには降伏したわけだが、新政府軍の報復に慄(おのの)いた。ところが、思いがけず西郷隆盛(南洲)の寛大な処置を受ける。これに感謝して、後に庄内に南洲神社まで造られている。

だが西郷は、東北方面の戊辰戦争ではほとんど出番がなく、ようやく庄内に着いたときには戦いが終わっていたというのが実情であった。しかも多額の戦後賠償金をせしめることができたのであるから、寛大に振る舞ったのではないだろうか。

なお、この戦後賠償金は、本間家を中心に藩上士、商人、地主などが明治新政府に30万両を献金したものである。

ちなみに、会津藩は23万石から3万石と大幅に減封された。そして、不毛の地・斗南(となみ)に追いやられ、藩士やその家族は地を這う生活を強いられた。実質的に会津藩は解体されたといってもいいだろう。

だが、庄内藩は17万石から12万石に減じられただけであった。一時は会津、平と転封を繰り返したが、先述の戦後賠償金や領民の嘆願により明治3年(1870年)に酒井氏は庄内に復帰した。

ここでも庄内藩は、領民たちの尽力により救われたわけである。ちなみに天保11年(1840年)にも、幕府による領地替えの計画が持ち上がったが、領民の嘆願により取りやめになった経緯がある。

こうした領民との結び付きといったソフトパワーの面からも、庄内藩は「最強」だったといえるのではないだろうか。

武田 鏡村 歴史家

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たけだ きょうそん / Kyoson Takeda

日本歴史宗教研究所所長、作家。1947年新潟県生まれ。1969年新潟大学卒業。長年にわたり、在野の歴史家として、通説にとらわれない実証的な史実研究を続ける。教科書に書かれない「歴史の真実」に鋭く斬り込む著書が多数ある。浄土真宗の僧籍も持つ。主な著書に『決定版 親鸞』『藩主なるほど人物事典』『新時代の幕開けを演出した龍馬と十人の男たち』『図解 坂本龍馬の行動学』『幕末維新の謎がすべてわかる本』などがある。

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