学生の「神レポート」を受け取って、教師冥利に尽きる
ある日の授業で、僕自身の当時の研究の話をちょこっと話した。すると数日後、学生が前編でも話したオフィスアワーにやって来た。
「フヒト(僕のファーストネーム)のモデルに似てるけどちょっと違うバージョンを考えてみたよ」
(アメリカの大学院では学生が「フヒト」とフランクに下の名前で呼んでくる。学部生の場合にはこちらから言わなければ「プロフェッサーコジマ」と敬称付きになることが多いが、僕をはじめ多くの教員はファーストネームで呼ぶようにと頼むみたいだ。)
とてもよくできた分析だったので家に帰ってもう一度彼の草稿を読んでみると、細かいところにちょっとした問題が見つかった。
それを伝えたら、次のミーティングでは、ちゃんと直してきた。
さらに細かいところを詰めて期末レポートにするように勧めたところ、しっかりした論文の体裁に整えてきたので、その後も書き方の添削やらを何度かしたうえで、権威ある専門誌に送るよう勧めた。
なんと見事に、一発で掲載(おめでとう)!
こんな例はしょっちゅうあるものではないけれど、学部、大学院を問わず、必ず学生の何人かは授業で教わったことから一歩進んで、「こんなことを考えてみたよ!」と言ってくる。
もちろんオリジナルな「学術研究」になるものはその中でもごく一部だけど(そして、必ずしもすべての学生が「学術研究」をするべきだと思っているわけでもないけれど)、学生が自分で何かを作り出そうとしているのを見るのは本当に嬉しい。
去年も学部上級の授業(この連載でも以前紹介したHonors Market Designという授業)で、ことによるとオリジナルな論文になるかもしれない良い期末レポートを書いてきた学生が2人もいて(これはずいぶん珍しい)、とても楽しみにしている。
こういうときの嬉しさって何なのだろうと考えてみた。あまり良い比喩が思いつかないのだけど、あえて言うならばいちばんよく似ているのは合唱や合奏できれいなハーモニーが生まれたときだろうだろうか。
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