人間は、一体どこまで「動物」になれるのか 人間と他の動物たちとの境界は曖昧だ

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“そこで、単純にできる限り境界の近くまで進み、手に入るあらゆる手段を用いて、向こう側を覗くという方法をとることにした。これは、単にじっと見るというのとは根本的に違うプロセスになる。(……)「タカは、感覚受容器からの入力を脳で処理し、それを遺伝的遺産と自分だけの経験に照らして解釈することで、どんな世界を構築しているのか?」というその疑問が、私の関心の的になっている。”

 

感覚受容器がうんちゃらかんちゃらと大層なことを言っているが、要は「動物になって生きてみよう」ということである。著者は本書の中で、アナグマ、キツネ、カワウソ、アカシカ、アマツバメになりきって生きようとし、その視点からみた景色を描いてみせる。僕は正直言って、最初「そうはいうても、どうせ四足歩行で一週間過ごしてみたり、一泊二日ぐらいで山の中で過ごしたりするだけでしょ」とナメていたのだが、この「生きてみた」の徹底ぶりが尋常ではない。

動物になって生きてみた

たとえばアナグマとして生きる章では、まず巣穴を本格的に掘り始めるところからはじめ、何日(少なくとも一週間ではない)もそこで泊まり込み、ミミズを生で食い、四つん這いのまま川まで下り、ペロペロと水を舐める。雨が降っても家に戻らず、川や地面に落ちていて食べれそうなものは何でも食っている。カタバミ、野ニラ、道路でぺちゃんこになっていたリス……

“今、私たちのベッドは地面のなかにあった。来る日も来る日も地面から這い出し、いつでも地面の近くにいたいとおもった。四本の足で森を這って歩いたって、バカバカしい見せかけにすぎないだろうとおもっていたのに、今では四本の足で歩かないことが鼻もちならない傲慢さに思えた。それだけではない。そうしなければ、どれだけのものを見逃してしまうかがわかりはじめていた。うしろ足だけで立って歩くのは、劇場の特等席が用意されているのにテレビの画面で森をみているようなものだった。”

 

真っ当な感想とは思えないがどこか納得させられてしまいそうな凄まじい"圧"のある文章だ。

著者はカワウソになりきった章では、ウェットスーツに身を包み毎日川にもぐって餌を探しながら日々を過ごす。スゴイのは一週間とかではなくて、冬から夏まで幾つもの季節を経てやりつづけることで、恐ろしいのは冬がきてからだ。カワウソは問題ないが、人間には水温が単純にキツイ。それでも著者は果敢に挑戦してみせる。だが、さすがに冬の川は無理だったようだ。『とどまろうとした。ほんとうにやってみた。でも実際は形だけの、そうするふりだった。

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