強制労働の現場「松代大本営」を語り継ぐ人々 本土決戦を前に、天皇の御座所を地下に建設
2013年8月、「看板問題」が起きた。
市観光課が設置する、象山地下壕跡の説明板の「当時の住民及び朝鮮人の人々が労働者として強制的に動員され……」という説明文の「強制的に」の箇所に白いガムテープが貼られた。市は「必ずしも強制的ではなかったなどの市民の声が寄せられた」という。
一方、NPOは「説明は適切」と主張。地元紙でも社説で《戦争遺跡『加害』どう継承》と取り上げられた。
結局、新しい案内板が取りつけられ、「強制的に」は残ったが、「と言われている」と断定の表現を避けた。また、「当時の関係資料が残されてない」などの一文がつけ足された。
「説明板の後半に《平和な世界を後世に語り継ぐ上での貴重な戦争遺跡》と書かれました。それは評価できますが意見は聞き入れられませんでした」(北原さん)
こうしたなか、証言者、体験者、また、語り継ぐ担い手も高齢化してきている。祈念館も、まだ建設半ばだ。
「体験者の証言を高校の放送部が聞きに来たり、大学生がゼミ合宿で訪れたり、卒論で取り上げる学生もいます。しかし、盛んだった県内の高校生の活動が、最近では下火です。若い人たちに、松代のことをどう伝え、引き継いでいくのかが課題です」
今も残る過酷な強制労働の爪痕
松本市里山辺(さとやまべ)地区には地下工場跡地がある。JR松本駅から車で約15分、長野自動車道から約20分。松本市内を流れる薄川(すすきがわ)沿いにある。民有地になっていて、一般公開はされていないが、調査活動する『松本強制労働調査団』のガイドで、地下壕に入れる。
’44年12月、紀伊半島沖を震源とする最大震度6の東南海地震が起きた。そのとき、名古屋市の三菱名古屋航空機製作所や発動機製作所も被害を受け、松本市へ工場疎開をする。
松本市が選ばれたのは、名古屋から松代へ行く途中ということや、市内には飛行機関連の工場があったこと、地質が硬いこと、松本歩兵五十連隊や飛行場があったことも理由だ。
工事が始まったのは’45年4月。里山辺地区(当時、里山辺村)や中山地区(中山村)には、地下工場や半地下工場を作り、ゼロ戦の後継機「烈風」などの部品製作と機体の組み立てをする計画だ。しかし、完成前に終戦となった。ガイドの平川豊志さんは言う。
「当時の村長は“半島人が7000人”と書いています。ただ、寄留簿では数百人とあり、実態はわかっていません」