歴史が語る米国に残された「軍事オプション」 過去に北朝鮮と衝突したときはどうしたのか

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これらの文書は、1969年4月15日、31人が乗っていた米EC-121軍事偵察機が日本海上で北朝鮮のMiG戦闘機によって、撃墜された事件の対応を詳述している。この事件の前も、1968年には韓国の指導者、朴正煕(パク・チョンヒ)氏を暗殺しようと奇襲部隊の派遣しているほか、米海軍艦艇プエブロの拿捕(だほ)事件が発生しており、北朝鮮からの一連の挑発的行動は続いていた。

近年驚くほどに注目を浴びないこうした文書には、EC-121事件発生時と直後、リチャード・ニクソン政権が検討した軍事オプションが詳述されている。ニクソン大統領に提案されたオプションには、海上封鎖から、飛行場・港・発電所といった標的への通常攻撃、指令室・地上部隊の集結地・飛行場・海軍基地・ミサイル施設に対して、核兵器を使用する3種類のオプションとして、「フリーダムドロップ」と名付けられた緊急有事計画まで多様な過熱した反撃メニューがあった。

これらのオプションプランで想定された空爆は、韓国、沖縄の米軍基地(嘉手納空軍基地)、グアム島(アンダーセン空軍基地)、航空母艦から実施されることになっていた。

当初は限定的な攻撃が考えられていた

この偵察機が撃墜されたとき、報復に向けた詳細な軍事プランは存在していなかった。最初のオプションは、挑発に直面して、主に米国の決意を実証するために、そして、戦闘激化を避けるためにも、北朝鮮の飛行場への限定的な攻撃を要求していた。

米国はこのとき、ベトナム戦争の真っ最中。旧ソ連と中国両国の反応、そして、朝鮮半島での紛争が拡大した際の米国の軍事資源枯渇という問題が、ニクソン政権に重くのしかかっていた。ニクソン大統領は軍事攻撃を本気で検討したが、その代わりにはるかに抑制的な対応策を選択。偵察機による偵察を再開させ、軍事力を示すために武装した護衛艦と共に、航空母艦2隻を日本海に移動させた。

ヘンリー・キッシンジャー国家安全保障問題担当大統領補佐官はこの対応策に満足せず、さらに詳細な軍の有事計画策定を命じた。キッシンジャー国務長官は後年になって、この最初の限定的攻撃の決定を「ひ弱で、優柔不断で、統制がとれないもの」だと見なしていた。

国防総省は限定した攻撃では、北朝鮮が報復から免れたままになってしまうだろうと懸念していた。「先ほどの有事計画で述べられた攻撃を含む空爆なら、北朝鮮の大規模攻撃が起きれば、かなりのリスクが大韓民国(韓国)に生じる」と、統合参謀本部(JCS)の最重要機密文書は5月2日に述べていた。

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