痛快!81歳生涯現役女子プロレスラーの正体 あなたは「小畑千代」を知っているか?

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この試合がおこなわれた昭和43年といえば、藤純子(富司純子)が女博徒・お竜を演じた東映任侠映画『緋牡丹博徒』が公開された年でもある。「闘う自立した美しい女」が受け入れられる素地ができつつあったのだろう、女子プロレス番組はレギュラー化され、20%という高視聴率をあげるようになる。

小畑がプロレスを始めたのはまったくの偶然だ。「東京女子プロレス」の求人広告に応じようとした妹を止めに行ったところを見込まれ、その場で入門したのである。練習は厳しかったが、運動神経に秀でた小畑は、努力と研究で実力をつけていく。そしてデビューしたのが昭和30年、55年体制が築かれ、高度経済成長に突入していく時代だった。

下品な野次を飛ばす客に、黙っていたりしない

当時のことである。女子プロレスはきわものと思われがちだった。なので、お色気は御法度。コスチュームはスクール水着のような紺色で、脚の付け根にはゴムがいれてあり、下着など絶対に見えないようになっていた。それでも「もっと股を広げろ!」などという下品な野次を飛ばす客がいたりした。そんな客に小畑は黙ってはいない。試合を中断して客席に降りて一喝する。

”若い子が一生懸命、汗水たらして鼻血を出してやっているのに、何が股を開けだ、ばかやろう。お前がリングに上がってこい。私がやってやるから”

客は当然縮み上がって黙り込む。しかし、これはまだましな方だ。タッグを組む佐倉輝美と示し合わせて、対戦相手の外人をリングの外に落として場外乱闘に持ち込み、そんな野次を飛ばした客のところまで髪の毛をつかんで引っ張っていく。そして、外人選手によけられたふりをして客を殴ることもあった。こうなったら、野次も命がけだ。

東京女子プロレスはわずか2年後に解散となってしまうが、小畑らは新たな団体をたちあげることなく、いまでいう「インディペンデント」として興行をおこなうことにした。国内の巡業で大人気だったのみでなく、韓国、復帰前の沖縄、ハワイへも遠征している。

韓国へは国交樹立2年前、日韓親善のために送られたのだが、占領時代の記憶が色濃く残っている頃だ、「日本(イルボン)、殺せー!」という日本語と韓国語の入り交じった野次がとびかった。沖縄へは大物やくざがプロモーターとして同行して、なにかとややこしい注文をした。いずれも時代を感じさせる話である。夢のハワイでは、3ヶ月興行して半年はバケーションにあてたというから豪気なものだ。

おもしろい興行先としては、美空ひばりの「ひばり御殿」や巣鴨プリズンなどもあった。そのころの小畑は、どこへ行く時も100万円以上持っていたという。大卒初任給が3万円台の頃だから、かなりの大金だ。また、定期的に児童養護施設を訪問し、寄附をしていた。ちょうど当時に流行していた漫画『タイガーマスク』を地で行くようなエピソードに、小畑の心根がしのばれる。

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