「北斗の拳」のザコが舞台で主役を張れるワケ 「世紀末ザコ伝説」が映す人気作品の世界観
人気キャラクターの掘り下げを行うスピンオフ作品が多い中、『北斗の拳』はあえて「名前すら決まっていないザコキャラクター」を中心に据えた。この異質な企画が成立した背景には、『北斗の拳』が持つ「世界観」がある。『北斗の拳』の独特の世界観をつくり出しているのはザコの振る舞い、生きざま、死にざまだ。作品の屋台骨であるザコに焦点を当てる試みはまさに「記念企画」にふさわしいといえる。
なぜなら、『北斗の拳』は「ザコがつくった舞台の上で、主人公が戦う物語」だからだ。
ケンシロウを正義の味方に育てたザコたち
『北斗の拳』の主人公のケンシロウが使うのは暗殺拳だ。暗殺拳というだけあり、彼の技を食らった敵はほぼ100%死亡する。それも顔を台なしにされたり、内臓が飛び散ったり、異常なほど体が膨れ上がって爆発したりと、無残な姿にされることが多い。
いくら悪を倒すヒーローものの作品とはいえ、敵を容赦なく殺すとなれば賛否両論が湧き起こるものだろう。それでも、『北斗の拳』においてザコの死にざまに異論を唱える読者はほとんどいない。
なぜなら、『北斗の拳』のザコは「同情の余地のない悪人」だからだ。モヒカンにトゲつきの肩アーマー、改造バイクを乗り回すというとがりにとがった見た目もさることながら、「ヒャッハー」の掛け声のもとに略奪行為を働く姿にはいっさいの倫理観や常識が感じられない。彼らはただ自分たちの欲望のまま、ひたすらに暴れ回る。人間の暴力性と意地汚さが見事に融合した悪人らしい悪人の姿は、読者に「倒されて当然」という感想を抱かせる。
そんなザコ相手に暗殺拳を振るうから、ケンシロウの行為は正義とされる。情けをかける気にならない悪人だから、無残な最期がカタルシスにつながる。
もし、ザコの悲しい過去や仲間を気遣う描写が挿入されたなら、ケンシロウは正義のヒーローから一転、血も涙もない人殺しの烙印を押されるだろう。悪は悪のままでもいられるが、正義の味方は悪がいなければ成り立たない。ケンシロウが悪を成敗できるのは「悪役がちゃんと悪役をしているから」にほかならないのだ。
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