アジア、日本においては、やはり、家族主義なところがあり、家族に面倒を見てもらいたいという期待値が高い。しかし、それがかなわない場合、そのセーフティネットとなるコミュニティのようなものがあまりないために、孤独に陥りやすい。
特に日本では、現役時代に世界の中でも最も長い労働時間に耐え続けた人たちは、そういったコミュニティを探したり、つくる暇もなく過ごしてきた。退職したら、もっと報われるはず、とずっと我慢して働き続けても、結局、願ったとおりにはならず、期待値と現実の差に打ちのめされてしまう。
最近、ネットフリックスで「侍グルメ」という日本の番組を見たが、ひたすら働き続けてきた男性が退職し、何をしていいのかわからない、という前提の話だった。いろいろと食べ歩きをするが、彼はずっと1人。友達もネットワークもない。まさにそういう人が日本には多いのだろう。「人生=仕事」という日本ゆえの悲劇ではないか。
失業が与える傷は男性のほうが女性の2倍深い
――人生における仕事の比率があまりにも高いということか。
そもそも、人はどのような経験に対しても「慣れ」によって、順応性を身に付けていくことができる。この特性によって、たとえば、「離婚」などといった経験から比較的早く立ち直ることができる。しかし、「失業」と「通勤時間」にはなかなか順応できない。どんなに時が経っても、そのストレスや不快感を受容していくのが難しい。なぜなら、失業期間中は、時間がたくさんあり、おカネがあまりなく、ほかにすることもない状態で、気を紛らわせることができない。こうした負の考えにずっと付きまとわれてしまうのだ。これは通勤時間中も同じことだ。
また、失業が与える傷は男性が女性の2倍ほどであることわかっている。「失業」は誰にとっても痛手だが、「仕事」の比重が非常に高い日本のサラリーマンの場合は特にそのメンタルダメージがとても強いということなのだろう。
――何か解決策はあるのか。
特に個人主義的な西洋に比べて、アジアでは家族や地域など同一グループ内でのつながりを重視するが、そういった社会の場合、そのグループや家族のほかにつながりを作っていこうとせず、「閉鎖的」になりがちだ。個人主義的な社会では、自らの独立性を保ちながらも何かあれば、外部のセーフティネット(たとえば、フロリダの高齢者ホームに移り住むなど)に頼ることをいとわない。日本においても、もっとオープンなネットワークやコミュニティのあり方を考える価値はある。
また、人生において、その満足感に大きく影響するのが「生きる目的」である。仕事という目的を失った人たちが新たに「生きがい」を見いだせるような仕組みがあればいいと思う。それは国や文化、そして個々人で違うものだが、その解が出しやすくなるように社会として取り組んでいく必要があるかもしれない。
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