JR発足時「バブル」は鉄道に何をもたらしたか 好景気に沸いた時代に生まれたJR
これらの新型車は国鉄時代の汎用的な車両とは異なり、各社・各路線の事情に合わせた車両であったことが特徴だ。九州や四国は延びる高速道路網に対抗できる高速で快適な特急の増強、西日本は京阪神地区で並行する私鉄への対抗策と、各社がそれぞれ抱える経営課題に応えるための車両導入がこのころから本格化したのだ。この時期に導入された車両やその後継車が、その後のJR各社の基本的な経営方針を形作ったといえる。
さらにこの時期には、JR東日本の「スーパービュー踊り子」など、リゾートブームを背景に豪華さを売りにした行楽地への新型特急も登場。1989年に開催された「横浜博覧会」の期間中には、JR東日本が会場近くに設けた展示スペース「夢空間'89」に豪華寝台車とラウンジカー、展望型食堂車の3両を展示し、これらの車両はのちに実際の列車に連結されて走行した。1990年12月にはスキー場と直結したガーラ湯沢駅が誕生し、好景気を背景にしたスキーブームにJRも乗った。「GALA湯沢スキー場」は、JR東日本初のリゾート開発事業だ。
新たな列車の登場は続き、1991年3月にはJR成田線の成田空港ターミナルビル乗り入れに伴い、新宿や東京などと成田空港を結ぶ「成田エクスプレス」が運行を開始した。
バブルが終わっても続いた新車導入
だがこのころには、すでにバブルには終わりが見えていた。1990年3月にはバブルの原因ともなっていた土地への投機を規制する通達が大蔵省(現在の財務省)によって出され、金融引き締め政策も次々に行われた。1989年の大納会で3万8915円を記録した日経平均株価は、翌年明けから下落をはじめ、3月には3万円を割った。一般にバブル景気は1991年2月までとされる。世間の雰囲気としてはその後もしばらくバブルの名残りがあったものの、景気は後退局面へと入っていた。
それでも、国鉄からJRに変わった鉄道各社は、新しい動きを止めなかった。JR北海道は振り子式の新型特急気動車を開発し、JR東海は1992年3月から「のぞみ」の運行を開始した。国鉄から引き継いだ車両の老朽化や、地域の実情に応じた車両の投入によるサービス向上のため、新型車両の製造はどうしても必要だった。バブル期に開発された車両が実際に投入されたタイミングが、バブルの崩壊後だったということもできる。
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