電車内の「ベビーカー問題」は解決できるのか 迷惑な子連れと不寛容な乗客の無益な争い

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昔は電車や街は「皆のものであって誰のものでもない」から、車内喫煙や泥酔した乗客など現在は迷惑極まりないと見なされる行為であっても当時は何とも思わない人がほとんどであった。他人の言動をとやかく言うより自分の言動を慎むのが当たり前とされていた時代でもある。

今、電車や駅が提供する移動の時間と空間は「みんなのもの。その一部は確実に私のもの」と見なされている。

少なくとも、自分が代金を払って確保した時間と空間については、その対価として期待どおりの居住性が保証されてしかるべきだと考え、それを侵害するものには極めて厳しい視線が注がれる。子連れの乗客もまた、相応の代金を支払って電車に乗る権利を有しているのだから、他人様のお宅にお邪魔するように遠慮して委縮する必要はないと考える。自治体や企業が直接的であれ間接的であれ子連れの電車利用を促していることも彼らに自信と根拠を与える。

このように移動や空間に対する個人的な権利意識や要求が高まる一方で他者への寛容さはますます失われているところへ、これまた以前は考えられない規模の、高い要求と権利意識のある子連れが大挙して訪れるようになれば、そこに問題が起こらないはずがない。

子どもは怒られても絶望しない

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ベビーカーマークが貼られた車両

この「電車は誰のものか」という問いと同じようなところに、「子どもは誰のものか」という問いも存在している。

以前なら、子どもは親の管轄にありながら国や郷土の未来を継ぐ者として皆で大事に守り育てるべきものであった。だから国や郷土のために犠牲になってもかまわないという時代も確かにあった。しかし、今は、でき婚であろうとなかろうと、子どもは「授かる」ものではなく親が自分の都合で「つくる」ものという認識が親本人はもちろん周囲も一般的になっており、親が自分の意思でつくった以上、子どもに関して全責任を負うべきだという意識は非常に強い。自分たちだけでなんとかするしかないというプレッシャーと、だったら自分たちの好きにすればよいという開き直りの狭間で親たちも揺れている。

それでは、ベビーカー論争のような数々の子連れトラブルに解決を導く正解はあるのだろうか。

「もうちょっと寛容になってくださいよ」と世の中に呼びかけたいところだが、やはり、子連れ側がなるべく迷惑をかけないよう努める以外、改善はないと思っている。

そして、迷惑をかけないよう努力して努力して、それでも、ただ子どもがおしゃべりしているだけで「うるせえ!」と怒鳴られる理不尽に時に出会うことがあったとしても、怒ったり嘆いたりせず、まあ普段からいろいろご迷惑をかけているんだからしゃあないわなぐらいの気持ちで受け止めるほうがいいのではないか。子どもはそんなことで人生に絶望するほどヤワではない。

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