ポケモンGO批判の裏に透ける車社会の奢り 本来の暴力性をあるがままに肯定できるのか

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実は「道路は遊び場ではない」という考え方は、ここ30年ほどのものでしかない。今年41歳になる僕が子どもだった1970~1980年代は、第2次ベビーブーム後だったこともあって、多くの子どもたちがよく路上で遊んでいた。もちろん幹線道路で遊ぶことはないが、狭い路地などでは誰かしらが遊んでいた。僕自身も電信柱などを使ってボールを投げたり、友だちと馬乗りになったりして遊んでいたものだ。

そもそも、当時は人がよく道路を歩いていたし、道路上で井戸端会議に花を咲かせる主婦も多かった。「自動車の道路」と「人が生活する道路」というのは明確に分かれ、人の歩く道路に自動車がやってくることは多くはなかったから、安心して遊べたのである。

自動車の通行が主体の道路に変わっていった

それも僕らの成長とともに変化していった。バブル前後に自動車販売はピークを迎え、その後、日本経済は停滞しつつも保有台数は右肩上がり。地方都市では「一家に1台」どころか「1人1台」というケースも珍しくなくなった。ベビーブームが終わって子どもの数が減っていき、子どもが道路で遊ぶ光景も少なくなった。人や自転車の往来が多い道路でさえ、いつしか自動車の通行が主体の道路に変質していった。そもそも今は公園で子どもが遊ぶ声すら「うるさい」と言われるくらいに、子どもの声が日常のものではなくなってしまっている。

もっと客観的な歴史を踏まえれば、道路を「車のもの」とみなしてきた歴史は、昭和30年代の「交通戦争」に始まるのだろう。戦後の高度経済成長の中で車と人と路面電車などの公共交通が入り交じるなかで死者数が日清戦争での日本の死者数を超えたことから「戦争」と名付けられたが、実際は「人や公共交通」と「自動車」が道路の占有権を争う時代だった。

交通戦争で「道路を自動車が我が物顔で走るなんて迷惑」と考える人もいたのだろうが、そうした声は抹殺され、東京を支えた路面電車網はその大半が廃止され、安全のためにと道路から人が追い出される形で戦争は事実上終結した。結局は自動車事故によって多くの人間が犠牲になったからである。決して穏当な話し合いで決着が付いたわけではなく、事故の責任を自動車が追わぬままに、強引に終結したといってもいい。

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