テレビは「視聴者の想像力」を信用していない 是枝監督が映画「いしぶみ」に込めた反骨心
――これまでの是枝監督の映画は「生き残ってしまった側のその後の生」というのがテーマでした。今回の『いしぶみ』でも、ジャーナリストの池上彰氏が生き残った旧制広島二中の生徒に取材している様子が盛り込まれています。
今回は自然とそこに引き寄せられたという感じでしょうか。最初はプロデューサーに、被害だけを語ってもダメ、加害についても語らなければならないから、原爆を落とした米国の取材と、原爆を落とされたことによって敗戦を迎え、結果、解放された広島在住の在日韓国・朝鮮人の人たちを取材したいと伝えていました。そこが、オリジナルの『碑』に欠けている視点だと思ったんです。
しかし、リサーチしていくうちに、全滅といわれていた321人の広島二中の生徒の中で、直前に転校していたり、具合が悪くて家にいて生き残った生徒がいた、という話が出てきました。それならむしろ、その話を掘り下げたほうががオリジナルの『碑』から離れずに済むと考えました。
現代を生きる旧制広島二中の先生の娘さんの話を聞いていると、彼女にとって原爆投下は過去のことではないことがわかる。弟さんの遺品がある資料館に来たお兄さんが口にする、「来たで」のひとことで展示品も現在形になる。
死んだ人たちに生かされているという自覚が今につながっているんですね。原爆を経験していない僕らも、死んだ人たちのつながりの中で今、生きているという意識を持つことは大事なことだと思います。
「視聴者の想像力への信頼」を失った制作者
――テレビ番組は、視聴者がチャンネルを合わせた瞬間に理解し、面白いと思ってもらえないとすぐにほかのチャンネルに変えられてしまうため、そうした点を強く意識した番組制作が行われているとも聞いたことがあります。
日本が映像教育というものをやってこなかったことに問題があるのではないでしょうか。小学校に通っていた頃、視聴覚教室でNHKの番組を見るだけの時間がありましたが、映像をどう読み解いていくか、といったメディアリテラシーを学んだ覚えはありません。今の学校教育も同じようなものでしょう。だから制作者は「視聴者の想像力への信頼」を失い、視聴者はわかりやすいものに流れる。
この状況を少しでも改善したくて、早稲田大学理工学術院の教授として教壇に立ち、1960年代のテレビドキュメンタリー番組を視聴しながら、テレビが持っていた可能性とその限界、どのようにメディアが権力と衝突して次の世代に引き継がれてきたか、というメディアリテラシーの授業を行っています。
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