明日なき老人村に、なぜ、ビジネス御殿が建ったのか
横石さんは、さらに衝撃的な言葉を耳にする。「自分はたくわんばかり食べてでも、東京や大阪のいい学校に出したい」と語っていた教育熱心な母親が子どもに対してこう言い放った。「あんた、勉強しないとこの町に残ることになるよ」。
「自分の生まれた町を悪く言うなんて……。このままではいけない」。横石さんは、町の人に改革の必要性を訴えた。だが、横石さんの思いとは裏腹に町民の反応は冷たかった。「よそ者が偉そうなことを言うな。机を放り出してやる。ここから出て行け」と激怒されたという。「悔しかった」と横石さんは振り返る。が、鼻っ柱の強い横石さんはその言葉でさらにやる気になった。
就職して2年後、上勝町に激震が走る。未曾有の大寒波が猛威を振るい、ミカンの木が全滅してしまったのである。
「何とかしなければ」。横石さんは経済的にも精神的にもショックを受ける農家を早く立ち直らせようと奔走した。その後、上勝町は青物野菜や切り干しイモ、夏ワケギなどの栽培で何とか危機を乗り切るのだが、横石さんは安定して稼げる新しい産業を探し続けていた。
そして、葉っぱビジネスのきっかけをつかんだのは寒波から5年後。大阪の青果市場に野菜を出荷した帰りに立ち寄ったすし屋で、横石さんはある光景を目にする。近くに座っていた女性客が、出てきた料理に添えられた赤いもみじの葉っぱを見て「きれい」と喜んでいたのだ。そして、女性はもみじをハンカチの上に乗せて持って帰ったのである。
横石さんは不思議に思った。「上勝町にもみじなんていくらでもある。何が珍しいのか」。だが、次の瞬間にひらめいた。「葉っぱをつまものとして売れば、ビジネスになる」。当時、つまものは料理人が自ら収穫するのが普通で、市場でほとんど流通していなかったのだ。
意気揚々と上勝町に帰ってきた横石さん。だが、町民は冷や水を浴びせる。「落ちているゴミを売るなんて貧乏人のすることだ」「タヌキじゃあるまいし、葉っぱがおカネに化けるわけがない」。それでも横石さんは上勝町では生け花用の花木を手掛ける農家を中心に説得に回った。協力してもらえたのは、主婦4人だけだったが、87年、何とか「彩(いろどり)」というブランドで葉っぱの販売にこぎ着けた。
ところが、出荷を始めてみると、ほとんど売れなかった。そこで横石さんは原因を突き止めるために全国の料亭を回ってつまものの研究を始めた。客として店に入り、どの料理にどの葉っぱが、どういった形で使われているのか、徹底的にメモを取ったのである。ちなみに料亭の経費は全部自腹。稼いだ給料は家にいっさい入れず、すべて料亭につぎ込んでおり、「使ったカネは御殿が建つほど」と苦笑いする。
だが、この大きな投資が現在の葉っぱビジネスの大きな礎となった。売れなかった最大の理由。それは上勝町の生産者たちが山で収穫してきた葉っぱを大きさや色、形を整えず、虫食いやしみがあってもそのままパックに詰め、出荷していたためだ。
料理人は器の大きさや料理によって同じ種類の葉っぱでも色や大きさ、品質を選別して使い分ける。同じパック内で色や大きさがバラバラだと使いづらいのだ。
そもそも、料亭が料理につまものを添える際にまず大事にするのは季節感だ。たとえば、つまものの桜は自然の桜が咲き始める1カ月半ほど前から料理に添える。山に咲き始めた桜を出荷しても価値は低くなる。
そこに気がついた横石さんは料亭で蓄積したデータを基に、色、形、大きさなど出荷時の重要なポイントを示した手書きのイラストを作成し、出荷する商品の均質化を図った。