経済情報を制した日経”圓城寺モデル”の秘密

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「総合情報機関」を目指すべく、圓城寺氏が最も重視したのがミクロ情報取材の充実である。企業に関する取材量で他の新聞を圧倒する戦略に打って出た。「ミクロ強化がなければデータベースの商売も器だけで終わっていた」と日経幹部は振り返る。

それまで日経では工業部、中小企業課などが産業を担当していたが、新聞紙面は大蔵省、日銀などのマクロ情報中心に構成され、産業面のスペースは小さく、全16ページ中2ページといった程度の扱いだった。取材はしたものの掲載されない、ムダになる情報も多かった。そこで、専門紙2紙(日経流通新聞、日経産業新聞)の創刊をテコに、各業界を網羅する圧倒するような取材体制を構築した。

また、日経産業新聞の発刊を延期してまでスケジュールに割り込ませたのが、直販雑誌の創刊だ。日経51%、米マグロウヒル社49%出資により、日経マグロウヒル社(88年に日経全額出資となり日経BPへ社名変更)を設立し、直販雑誌の発行を開始。『ビジネスウィーク』誌を模した『日経ビジネス』(69年創刊)に加え、『エレクトロニクス』誌を模した『日経エレクトロニクス』(71年創刊)を刊行。その後も、技術専門誌を次々に創刊し、経済だけでなく技術に詳しい専門記者を育てた。

日経がマグロウヒルから学んだのは直販のノウハウだけではない。傘下のスタンダード&プアーズから財務分析、債券の格付け技術を学び、それが日本公社債研究所(79年4月設立、現在の格付投資情報センター)に結びついた。

圓城寺氏の功績は、それだけではない。美術への造詣が深く、インド古代美術展、東山魁夷展などを成功させ、経済だけでなく芸術にも強みを持つ新聞としてのブランドを確立した。さらに、圓城寺氏は経済審議会会長、中央社会保険医療協議会会長など多くの公職も務めた。「しかしこのような輝かしい業績にもかかわらず、再三にわたり、叙勲を固く辞退なさいました。新聞人として無冠の帝王を貫き通された見識には敬服するばかりです」(葬儀委員長を務めた鶴田卓彦社長<当時>の弔辞)。

圓城寺時代は、石油ショックはあったものの、企業の業績、消費とも右肩上がり。圓城寺氏が会長に退いた当時の部数は170万部台で、売り上げも500億円程度。今から振り返れば、まだまだ新聞の部数増、売り上げ増が続く成長の時代だった。その当時から先々を見通して多角化を進めた経営判断は、炯眼と言うしかない。
(週刊東洋経済)

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