経済情報を制した日経”圓城寺モデル”の秘密
日本経済新聞の圓城寺次郎元社長は33年に早稲田大学政治経済学部を卒業し、日経の前身である中外商業新報社に入社。日銀、大蔵省などのクラブ詰めを経て入社8年後の41年には経済部長、戦後の47年には取締役に就任した。社長就任は68年だが、「社内で抜きんでた存在だった。編集局長、主幹として、社長になる10年以上も前から、実力者として経営を取り仕切っていた」と社長就任前の圓城寺氏を新入社員当時に見た元取締役は振り返る。
日経は、72年にIBMの大型コンピュータ「S/360」を用いた、鉛を使わない新聞制作システムを稼働させた。これは、開発に10年近くかかった難プロジェクトだった。当時、日本IBMの副社長、社長としてこのプロジェクトを率いた椎名武雄氏は「圓城寺さんが『椎名君、日経は新聞も出している会社にしたいんだよ』と言ったことが忘れられない。今で言うインターネットも予見していた。本質を見抜く力があり、ビジョンを持っていた」と振り返る。「あとから聞くと役員会では開発を中止すべき、という反対意見も強かったようだ。しかし、そんなことをおくびにも出さなかった」。
新聞制作のコンピュータ化は、何も日経だけが先行したわけではない。朝日新聞もまったく同じ時期にコンピュータ化を進めた。しかし、「朝日は労務コストの削減を主眼にしており、新事業構築という観点がなかった。それが30年経ってこれだけ大きな差になっている」(朝日新聞幹部)。
日経は、記事を新聞に印刷してそれで終わりにはせず、データを蓄積して企業などに販売する新しいビジネスの立ち上げを目指した。「現状の新聞経営はムダだらけ。魚に例えればおいしい真ん中の身しか食べていない。頭から尻尾まですべて食べるようにしなければ」というのが、当時の圓城寺氏の言葉だ。
企業取材を強化
圓城寺氏が主導して63年に設立した社団法人・日本経済研究センターは、英国のEIU(エコノミスト・インテリジェンス・ユニット)を参考に作られたシンクタンクだ。EIUは英『エコノミスト』誌と深い協力関係がありながら、独立的に運営され、世界的な権威を持っていた。日本経済研究センターは今でも竹中平蔵氏をはじめ、著名なエコノミストに研究の場を提供している。
■圓城寺時代に築かれた飛躍の土台