「君が代」が今まで滅びず生き延びてきた理由 「消極的な肯定」という言葉に尽きる
このような「君が代」に対する消極的な肯定は、多少の数字の変動はあるものの、戦後の調査では一貫して見られる。なるほど「君が代」は長らく法律によって国歌と定められていたわけではなかった。戦後の日本は民主国家なので、事実上の国歌に収まるためには国民の支持や同意も必要だろう。ただ以上の数字を見る限り、戦後の日本でも「君が代」は事実上の国歌として通用し続けていたのではないかと思われる。政府も長らく慣習としてそのように扱ってきた。
「君が代」は平和的な歌だ
ところで、このように歌詞の意味が混乱したのは、「君が代」の由来にもよるだろう。第一章でも述べたように、もともと「君が代」は「題しらず」「読人しらず」の古歌だった。戦前期の日本では「天皇讃歌」と解釈され、国歌として教えられていたものの、敗戦によってその解釈が宙に浮き、意味がよくわからない状態に陥ってしまった。
ただし、それには「君が代」の存続にプラスの面もあった。というのも、オリジナルの意味がわからず、所詮すべてが解釈にすぎないとすれば、「君が代」は天皇絶対の歌でも、軍国主義の歌でもないと主張することができたからである。1950(昭和25)年に天野貞祐によって「君」が「象徴天皇」と解釈されたことはすでに紹介したとおりだ。
もうひとつの「軍国主義」についても、「いや、もともとは平和的な歌だった」という反論がこの時代には現れてきた。例えば、1963(昭和38)年2月9日「読売新聞」には、次のような富山県の中学教師の意見が載っている。
「君が代」は民主国家・平和国家という理念と矛盾しない。こうした「君が代」の再解釈は、現在の日本では広く普及している。憲法が根本から改まり、歌詞に対する批判も多いにもかかわらず、「君が代」が生き延びることができたのも、このような様々な解釈が可能だったからに他ならない。
ただ、「意味はよくわからないが、これでいい」という国民の態度は、「君が代」の存続を可能にはしたが、一部の人たちの間で「これが本当に国歌でよいのか」という論争を引き起こす結果となった。それは戦後の激動期を「君が代」が生き延びた副産物だったといえる。
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