『襲われて』を書いた柳川喜郎氏(前岐阜県御嵩町長)に聞く
日本の一隅、点に過ぎないような御嵩という小さな町で起きた環境問題の、また一隅の問題が御嵩の産廃だったが、こういった大きなバックグラウンドの中で考えてきた。
--地方自治としての問題点も随所に見られます。
元マスコミ町長として言えば、行政というのは、結局、情報公開と説明責任、この二つをきちんとやっていれば、何をやってもいい。これは国政のレベルもそうだ。
御嵩町のある岐阜県は東京とは大きく違う。地域格差が広がったといわれているが、東京を中心とした首都圏と、それ以外の地方との格差はどんどん広がっている。東京に住んでいる人には想像に絶することが地方では起こりうる。これが御嵩の産廃問題の一つの特殊な性格をつくる。岐阜という保守的な風土の中で起きたという面もある。
その中での地方自治は大きなテーマだった。国と都道府県と市町村、三つの行政レベルがあるが、具体的な問題になると、市町村はまるっきり国や都道府県の「家来」だ。住民は上下の関係にあると、頭の中に刷り込まれている。何か問題が起こると、考える前にすぐ電話をとって、どうしたらいいかと県とか県事務所に聞く。それは役場の職員に旧内務省のころの話だよと、説き聞かせてもわかってもらえない。
--民意を大事にしました。
民主主義のしんどさ、それをとことん体験した。それこそチャーチルではないが、「民主主義はひどい制度だ。ただほかの制度に比べればいい制度だ」と実感したものだ。民主主義とは一に説得、二に説得に尽きる。それに時間とエネルギーを費やす。手間隙(ひま)を惜しむと、民主主義ではなくなる。住民投票の発想の根底にはそれがあった。結局は民意しかない。その結果を甘んじて受け入れなければならない。
--産廃処分場の手続きでの民主主義とは。
僕は処分場をなくていいとは言っていない。どうしても処分場が必要なら、民主主義の手法にのっとり、時間とエネルギーとコストをかける。