嶌の『自処超然』には、これらの疑問への回答は記されていない。本人に直接話を聞こうにも、今から18年前の1998年に亡くなっている。
しかし、嶌の息子である信彦さんからは、信正の人となりを少し聞くことができた。信正と同様、毎日新聞出身のジャーナリストで、現在は日本ウズベキスタン協会の会長としても活動している、嶌信彦さんだ。
信彦さんは「父はしょっちゅう職業が変わっていた。子供の頃は、父が今どんな仕事をしているのか、よくわからなかった」と話す。頻繁に転職を繰り返していたせいか、信正の仕事に強い興味は持っていなかったらしく、大井モノレールについても「父と話をした記憶はない」という。
ただ、信正が日本高架電鉄に入った頃、信彦さんは珍しく「どんな仕事をやってんの?」と質問したという。「当時はモノレールがどんな乗り物なのか、自分もよく知らなかったから。父は『羽田から東京までは、自動車時代になって、混んで時間がかかってしょうがない。(時間を)短くするためにモノレールが必要。建設用地を確保するために地主と交渉するのが私の仕事』などと話していた」。
熱血漢が仲間と挑んだ夢
もっとも、信正はモノレールそのものに強い関心があったわけではないようだ。信彦さんは「父は熱血漢で、人に好かれるタイプだった。職を失うと、友人が『嶌を助けよう』と、必ず次の仕事を紹介していたようだ」と話す。「父も父で、友人から面白そうな仕事の話を持ちかけられると、『よし、手伝ってやろう』と、すぐに動く人だった」という。
実際、信正は前述の通り、参院副議長秘書を辞めて「浪人暮らしを覚悟」した頃、東京モノレール元副社長の城戸が誘っている。「東京モノレール時代に城戸と仲良くなったようで、家でもよく『城戸さん、城戸さん』と話していた。きっとウマが合ったんじゃないかな」(信彦さん)。
信正が大井モノレールの計画にかかわったのも、モノレールという乗り物への興味というよりは、東京モノレール時代の「仲間」とのつながりによるところが大きかったのかもしれない。
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