道半ばで東京モノレールを離れた城戸にとって、多賀の話は魅力的に映ったのだろう。城戸は「面白い、ぜひ実現させよう」と張り切り、同年6月に運営会社の大井モノレール株式会社を設立。城戸が社長に就任し、嶌は専務として大井モノレールに入った。
嶌は東京都や運輸省東京陸運局の幹部を連日訪ね、計画の了解を得るべく動き回った。副社長になった嶌の友人も「地域の有力者に再開発の計画を見せ、賛同も得られ張り切っていた」という。
ところが、大井町駅東口の駅予定地は警視庁のものであることが判明。土地の払い下げを求めたところ、「すでに警視庁の宿舎を建てることに決定しているので駄目だ」と拒否されてしまった。
そうこうしているうち、当初は3000万円あった資金が枯渇。計画を主導していた城戸も他界(1981年)してしまう。こうして大井モノレールは「第七回目の株主総会を迎えた後、いつの間にか消えた」という。
自伝とずれが……数々の疑問
以上が『自処超然』から読み取れる経緯だが、警視庁の土地を取得できなかったことだけが、計画中止の理由だったのか。疑問点は数多い。
国交省の所蔵文書によると、免許申請から2年後の1974年6月4日、東京陸運局長は「(大井モノレールは)技術、資金、輸送量等の諸点において問題があり、また、沿線住民の協力を得ることは困難」などとした意見を運輸大臣に進達している。資金や輸送量などはともかく、地域の有力者から「賛同も得られ」たとした『自処超然』の記述とは、微妙な食い違いが見られる。
おかしな点はほかにもある。たとえば、東京都は1969年度から1972年度にかけてモノレールの導入調査を行っており、大井埠頭を経由する環状モノレール構想も検討している。にも関わらず、品川区長が「相談に乗ってくれ」と民間人に話を持ちかけ、それに呼応して運営会社をすぐに設立するというのも変な話だ。
また、運輸大臣の諮問機関だった都市交通審議会は1972年3月、東京圏の鉄道整備基本計画(都交審答申15号)を策定。品川から大井埠頭の西側を通って羽田に抜ける地下鉄の検討を盛り込んでいた。こちらも間接的には大井モノレールと競合関係になるはずで、答申の策定にあわせるかのように大井モノレールの計画が浮上したのも、タイミングが良すぎる。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら