「大井モノレール構想」はなぜ幻に終わったか

あのジャーナリストの父親がかかわっていた

取り下げ願いには「都合により取下げ致し度くお願い申し上げます」としか記されておらず、詳細な経緯はわからない。ただ、取り下げ願いで名前が出てくる嶌信正は1996年2月、『自処超然』(嶌ネットワーク)という題名の自伝を著しており、モノレールとの関わりを描き出していた。

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大井モノレールのルート(赤)。京急線と東京モノレールの交差部にも駅が設けられる計画だった。(地図ソフト「カシミール3D 地理院地図+スーパー地形セット」で作成)

嶌は1912年生まれ。岡山の「六高」こと旧制第六高等学校を経て1933年に京都帝国大学に入学。滝川事件では滝川幸辰教授を支援する運動に関わった。卒業後は大阪毎日新聞社(現・毎日新聞社)に入社し、東亜部の記者として南京やマニラなどを飛び回った。

戦後は政治部に移るが、1951年のレッド・パージで退社を余儀なくされてしまう。以後はマージャン屋の経営や著名人の伝記編集など職を転々とし、1954年に『東急沿線新聞』を創刊している。

そして1960年、衆院選への出馬準備を進めていた元東京都知事・安井誠一郎の秘書になる。六高の先輩である誠一郎の弟・安井謙参院議員らに説得され、半ば強引に秘書にさせられたようだ。とはいえ、嶌は誠一郎の人柄にほれ込んだようで、『自処超然』でも「奥行きが深く、思いやりにあふれ、誰からも慕われた。政界でいえば緒方竹虎みたいな人で、岸信介とは違うタイプ」と評している。

一度は去ったモノレールの世界へ

大井モノレールの専務だった故・嶌信正(『自処超然』より)。毎日新聞の記者だったが、レッド・パージ後は大井モノレールも含め、さまざまな職を転々とした

この頃の誠一郎は、東京都心と羽田空港を結ぶモノレール計画にかかわっており、日本高架電鉄(現・東京モノレール)の会長に就任する予定だったという。ところが、誠一郎は1962年1月に病死。嶌は半年後の7月、誠一郎の遺志を継ごうと決心して日本高架電鉄に入社する。取締役企画室長や監査役を務め、1967年に退社した。

その後は音響メーカーの役員や、参院副議長になった安井謙の秘書などを務め、モノレールの世界から遠ざかった。しかし、副議長秘書を辞めて「浪人暮らしを覚悟」した頃、東京モノレール元副社長の城戸久から声がかかり、再びモノレールとかかわることになる。

城戸は日立製作所の総務部出身で、日本高架電鉄のスタートに合わせ副社長に就任。社長には帝国ホテルの犬丸徹三社長が就任したが、実質的には城戸が経営のすべてを取り仕切った。しかし、東京モノレール開業の翌1965年、経営悪化の責任を取る形で辞任している。

それから7年後の1972年3月頃、城戸は品川区の多賀榮太郎区長から「大井町を再開発してモノレールを作りたいので、ぜひ相談に乗ってくれ」と、話を持ちかけられた(『自処超然』では「区長」としているが、多賀の区長就任は同年12月で、3月時点では助役)。

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