天安門事件から世界が学ぶべき教訓--イアン・ブルマ 米バード大学教授/ジャーナリスト

ブックマーク

記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
はこちら

印刷ページの表示はログインが必要です。

無料会員登録はこちら

はこちら

縮小



 学生指導者が本当に政府を乗っ取ろうと思い、そのために暴力を使う気であったなら、こうした見解には説得力があっただろう。暴力的な革命の後にリベラルな体制が出来上がることはない。しかしながら、最も過激な学生でさえ、そうした野心を持っていたという証拠はないし、デモは極めて穏やかに行われていた。デモに参加した人々は、自由な言論、政府との対話、独立した組合、そして、役人の腐敗を終わらせることを求めていたにすぎなかった。

なぜ東ドイツと韓国は政府転覆に成功したのか

「デモは失敗に終わる宿命であったのか」という問いに対して、昔を振り返ってとやかく言うのは容易である。ただ、歴史はまったく同じようには繰り返さないが、あるパターンを見いだすことはできる。

一つ目の教訓は、デモだけで体制を転覆することはできないということだ。体制打倒のためには、“デモ”に“政治的な変化”が組み合わされなければならない。

たとえば、89年に東ドイツの人々が共産党の独裁者に抗議したとき、彼らには成功する確信はなかった。事実、共産党の一部の幹部は、天安門事件で中国政府が行ったのと同じように、戦車を出動させようとしていた。しかし、それは実現しなかった。ゴルバチョフが東ドイツの弾圧を支持しなかったからだ。つまり、強力な国民の抗議と政府の不手際の二つが重なり合ったからこそ、ベルリンの壁が崩壊したのである。

同じことが韓国の民主化についてもいえる。86年にソウルの市街地を埋め尽くした韓国の学生たちだけでは、軍事政権を終わらせることはできなかっただろう。米国の圧力と、間近に迫ったオリンピック開催、そして、説得力ある野党政治家がいたからこそ、それは成功したのである。

一方、天安門広場にいた学生たちは、共産党体制の内部で何が起こっているのかを知る術はなかった。当時、共産党内には深刻な分裂があったが、その結末を正確に予測できたものは一人もいなかった。

関連記事
トピックボードAD
政治・経済の人気記事