「学問の自由」がいつも破られる歴史的理由 研究と国家権力との危険な関係は常に存在する

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日本学術会議の会員任命問題を機に「学問の自由」とは何かが改めてクローズアップされている(写真:時事通信フォト)

日本学術会議の会員の任命を、政府が一部拒否した事件が大きく報道されている。確かにこれは学問の自由にとって重大な問題である。とはいえ、学問の自由などというものは、人類の歴史の中でも、極めてまれであったことも確かである。

それは学問の歴史や大学の歴史を見ればわかる。現在残存する西洋の多くの大学は、その時代の権力につねに歩み寄っていたからこそ、残っているともいえる。学問の真理に殉じたイタリアの哲学者であるジョルダーノ・ブルーノ(1548~1600年)や科学者であるガリレオ・ガリレイ(1564~1642年)の例はまことに美しいが、それはまれとしか言いようがないことも確かである。

学問の自由は、命を賭けた闘争であり、つねに破られるために存在しているにすぎないからである。

福沢諭吉が唱えた「雁奴になれ」

かつて福澤諭吉は、中国の故事にならって「雁奴」を説いた。学者やジャーナリストは、この「雁奴」になれというのだ。「雁奴」とは、鴈の中で一人群れを離れている風変わりな雁である。彼は仲間が起きているとき寝て、仲間が寝ているとき起きている。それはなぜか。敵が来ることを仲間に知らせるためである。学者やジャーナリストの存在意義は、まさにそうしたところにあるのだ。だから、政府や国家権力に取り入る学者やジャーナリストは、雁奴ではない。

産官学という言葉が定着して久しい。筆者の若い頃は、多くの研究者は産官学に反対したものだが、今ではそういうものも少なくなった。とりわけ自然科学分野において巨額の資金を必要とする研究が、一般化したからである。その最も有名なものが、アメリカの原爆製造のマンハッタン計画かもしれない。国家のため、企業のため、いや自らの名誉と金のため、今では国家や企業に資金を求めるのが一般化している。世間もそれを大学のランキングの中で評価し、むしろそういう傾向をあおっている。

しかしここで注意してほしいが、こうした資金には必ず出した側の目的があるということだ。その意味では、学問の自由は金をもらった時点ですでに存在しない。企業や国家の論理の中に組み込まれ、彼らの論理に服さねばならないからだ。日本学術会議や日本学士院のみならず、大学は、国立大学であろうと、私立大学であろうと、すでにこうした資金がなくては何もできない状態になっていることは確かだ。

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