小学校で大流行「2分の1成人式」の"異様" 「美談」で済ませていいのか?

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木村:もうひとつ最近気になるのが、学校って学習の遅い子に合わせて、わかっている子にも何度も同じことを繰り返させることが多いですよね。自分の子どものクラスを見ていても、それがかわいそうだなと思います。遅い子には劣等感を与えるし、できる子にとっても苦痛の時間が増える。

習熟度別より「内職の自由」!?

たとえば、算数の時間に掛け算がなかなかわからない子がいるとき、クラス全員に九九を最初から暗唱させるわけですが、そうではなくて「できてる子は、ちょっと本読んでて」などということで進めちゃって、全然、いいと思うんです。娘なんかも「九九が苦手な子にゆっくり教えるのはもちろん大切だけど、私にとって授業はほとんど我慢の時間でしかない。私はハリーポッターを読んでいたい」っていうわけですね。

そんなふうに「みんな一緒」を重視して、ひとつのまとまりというものを過大に求めることで、いろんなところに歪みが生じている感じがします。

内田:今回出てきたテーマって、どれもそういう共通点がありますね。「みんな一緒」の幻想からくる強制の歪みというか。

今、増えている学校でのグループ学習などでも、できる子ができない子の教え役になっていくと、はたしてできる子たちはどう伸びていくのか?という議論がずっとあるんです。そういったことも含めて、クラス内の子どもの進度、学習の習熟度をどうやって扱うかって、すごく難しいんですよね。「教育学の永遠の課題」といってもいいくらい、ずっと議論されている。

ただ基本的な流れとしては、やっぱり「みんな一緒」が大好きなので、習熟度別の授業はよくない、ということがずっと言われている。調査によっても習熟度別に効果があったりなかったりして、結果も見えにくいので。これをどういう形で解決していくのかっていうのは、難しいなぁ……。

木村:僕は、習熟度別にまでする必要はないと思うんですよね。勉強が得意な子にとって、苦手な子に教えてあげるのは楽しいし、本人にとってもより深い学習になると思う。ただ、もう十分に習得していることについて、何度も同じような説明を黙ってまじめな顔をして聞くというのは、かなりの苦行です。できた子がいた場合に、「この時間は、ちょっと別のことをやっててくれ」っていうのを、どんどんやっていったほうがいいと思う。

内田:確かに、そういうときハリーポッターを読んでて怒られるんだとしたら、おかしいね。そうか、「内職の自由」か(笑)。

今まであった議論というのは、できる子と進度の遅い子と分けてやりましょうっていう習熟度別の授業ですね。それが実際に行われてもきた。
でも、もっと個人単位で「できている子が内職しててもいいよ」みたいな発想というのは、全然ないですね、言われてみたら。

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