小学校で大流行「2分の1成人式」の"異様" 「美談」で済ませていいのか?
木村:ちなみに私は横浜の学区内トップの公立高校に通っていたんですけれど、そこはけっこうユニークな施策を採っていました。3年生になると、午後は授業ナシなんです。選択科目はとりたきゃどうぞ、いう形で。
内職にも非常に寛容な風土があって、私は英語の時間に政治経済か何かの問題を解いてたら「はい、木村、何番?」って当てられて、「ああ、これは内閣のなんとかです」みたいなことを答えてしまったことがある(笑)。
「全体主義」と「共和主義」
そういうちっとも「みんなが一緒」でない環境で何が起きたかというと、東大の合格率が目に見えて上がったんですよね。同時に、大学に進学せず専門学校を目指す人も出てきて、大学の進学率は下がった。多様性が広がる、という現象が起きたんです。これを格差が広がったと見る人もいましたが。
内田:なるほど……、難しいところですね。格差が広がった、というのはゆとり教育のときも言われたんです。それまで無理やり勉強させられていた子どもたちが、勉強しなくなっていき、勉強し続ける子はずっとし続ける、ということになって。ただ、これをどう評価すべきかっていうことは、本当に難しくて。
確実に問題なのは、勉強しなくなった層の多くが家庭的に貧困層だった、というところ。格差そのものよりも、格差が家庭のリソースと関係しているというのが問題なんですよね、きっと。
木村:ゆとり教育と内職の自由の話は、またちょっと違うと思うんですけどね。内職の自由のほうは、学習の到達目標を下げるわけではなく、むしろできない子に集中的にリソースを投入するわけですから。クラスみんなに同じ説明を繰り返すより、その子がつまずいている部分を1対1で説明してあげたほうが、クリアしやすいのではないでしょうか。
いずれにせよ、「みんなが一緒」だけを強調しちゃうと、そういう「わかっている子は内職」みたいな選択肢を採れなくなっちゃうんですよね。
もっと「全体主義ではなく、一人ひとりがやりたいことをやる」というか、「一人ひとりが、何が社会全体にとっていちばんよいことかを考えて、団体を作っていく」っていうようになればいいなと思うんです。
政治学の世界では、「全体主義」と「共和主義」みたいな言い方があって、「全体主義」というのは、価値観をまったく一緒にしよう、という発想。「共和主義」というのは、お互いに価値観を認め合いながら、違う立場にありながら、ひとつの公共体を作っていこう、という方向です。
「みんな一緒」を強要して、一部の人への重大な権利侵害を伴うような形になってはいけない。「全体主義的ではない、クラスの一体感」みたいなものを追求していく方向であってほしいと思いますね。
(撮影:梅谷秀司)
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