“100年に1度”の津波でも対応できない現実--震災が突きつけた、日本の課題《4》/吉田典史・ジャーナリスト
「その意味では同じことを繰り返している。漁業に携わる人が多く、港がある海岸に住居が近いほうが便利なのだろう。だが、地震の後、高台に素早く避難することができない人は今回、浸水した地域には今後は住むべきではない。
私も震災前に、高台へ移転することを強く言うべきだったと悔いている。女川町に限らないが、自治体も私たちもこの地域に住むことがいかに危険であるか、と警告し続けないといけないのだと思う」
気仙沼市の波路上杉ノ下地区についても解説をした。ここには、杉ノ下高台という、なだらかな丘がある。標高は海抜約12メートル。頂上は避難所に指定されていた。だが、津波は丘をのみ込み、避難していた50人余りが死亡もしくは行方不明となった。
都司氏は、行政の定めた避難場所がいかなるときも安全とは限らないと強調する。「避難場所が危ないと察知したら、より高い所へ移動しないといけない。自分の身を守るのは、自分しかいない。その意識を植え付けることが徹底されていなかった。これでは、“100年に1度の災害”のレベルでも住民は危ないといえる」
そして、石巻市では大川小学校の例を挙げた。ここでは、全校児童の7割以上が死亡した。都司氏は、学校の横の北上川支流(富士川)を震災直後から問題視している。この支流は人工的に河口近くで北上川本流と合流するようにされている。
並行して流れている北上川本流には高さ6メートルの堤防がある。ところが、富士川には堤防がない。震災当日、湾から北上川と富士川を逆流してきた津波は、学校に流れ込んだ。都司氏は、特に富士川からの波が子どもたちに襲いかかったのではないか、と見ている。
「学校の標高は2~3メートルにあり、川を乗り越えた津波は高い所から低い所へ、駆け下りるように勢いを増したのだと思う」