彼らは不思議がった。なぜスティムソンは、日本の軍事力の要衝をむきになって守ろうとするのか? 軍の幹部は、都ホテルや見事なモミジや黄金色のイチョウの木のことなど、知る由(よし)もなかった。
それでも信念が揺らぐことのなかったスティムソンは、最高指導者に直談判(じかだんぱん)に行った。彼は1945年7月下旬にトルーマン大統領と二度会い、二度とも京都を破壊することに対する猛烈な反対意見を並べ立てた。ついにトルーマンが折れた。京都は検討対象から外された。
爆撃目標の最終リストには、4つの都市が挙げられていた。広島、小倉、新潟、そして、後からつけ加えられた長崎だ。スティムソンは、将軍たちが彼の「お気に入りの都市(ペット・シティ)」と呼んだ京都を救ったのだった。代わりに、最初の原爆は広島に投下された。
長崎を見舞った二重の不運
2発目の原爆は、小倉に落とされることになっていた。だが、B-29爆撃機が小倉に近づくと、雲のせいで地表が見えにくくなった〔訳注 実際には、「雲」ではなく、前日の空襲で発生した火災の煙と靄(もや)だったとされる〕。雲は想定外だった。軍の気象担当者たちは晴天を予想していたからだ。
機長は上空を旋回し、雲が去ることを願った。だが、それがかなわなかったので、搭乗員たちは視界不良のまま爆弾を投下して目標を外すリスクを冒すよりも、第2目標の長崎を攻撃することにした。ところが、接近してみると、この都市もやはり雲に覆われていた。燃料が乏しくなるなか、最後に1回上空を通過したとき、ギリギリのタイミングで雲が切れた。
こうして、1945年8月9日午前11時2分に爆弾が投下された。長崎市民は二重の意味で不運だった。土壇場になって予備爆撃目標リストに加えられたうえ、別の都市が束の間、雲に覆われたせいで破壊されてしまったのだから。
もし「ボックスカー」が数分早く、あるいは数分遅く離陸していたら、代わりに小倉の無数の住民が命を落としていたかもしれない。今に至るまで、日本人のなかには、誰かが知らず知らずのうちに難を逃れるたびに、「小倉の幸運」という言葉を口にする人もいるという。
(翻訳:柴田裕之)
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