当初京都や小倉に投下される予定だった原爆が広島と長崎に投下されたのは、ある「偶然」のせいだったという信じがたい事実

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委員会は、予備の3つの目標についても合意した。広島、横浜、そして小倉(こくら)だ。目標のリストはトルーマン大統領に送られた。あとは爆弾の準備が整うのを待つだけだった。1945年7月16日、ニューメキシコ州の田舎の広大な無人地帯で爆発実験が成功し、核の時代の幕が切って落とされた。

目標検討委員会の決定は、もはや机上のものではなくなった。軍事戦略家たちは京都の詳細な地図を調べ、爆心地(グラウンドゼロ)を決めた。市内の鉄道操車場だ。爆発が意図されたその地点は、スティムソン夫妻が20年近く前に滞在した、あの都ホテルからわずか800メートルほどの所だった。

1945年8月6日、「リトルボーイ」という暗号名の原子爆弾が爆撃機「エノラ・ゲイ」から投下された――京都ではなく広島の上空で。14万もの人が亡くなり、その大半は民間人だった。3日後の8月9日、爆撃機「ボックスカー」が「ファットマン」を長崎に落とし、ゾッとするような死亡者数におよそ8万人を加えた。

だが、なぜ京都は助かったのか? そして、爆撃目標リストの上位に入ってさえいなかった長崎が、なぜ破壊されたのか? 驚くべきことに、観光客の夫妻と雲がおおむね40万もの人の生死を分けたのだ。

京都への原爆投下に断固反対した男

1945年には、H(ヘンリー)・L(ルイス)・スティムソンはアメリカの陸軍長官の座にあり、最高位の文民として戦時作戦を監督していた。

武官ではないスティムソンは、自分の仕事は戦略目標を練り上げることであり、それらの目標を達成する最善の方法に関して制服組を細部まで管理することではない、と感じていた。だが、目標検討委員会が京都を破壊の対象にしたときに、その思いが一変した。

スティムソンはただちに行動を起こした。マンハッタン計画の責任者との会見のとき、スティムソンは断固とした態度を取った。「京都を爆撃してもらいたくない」。軍司令官との会談のときには、「私の許可なしに爆撃してはならない都市が1つ」ある、「それは京都だ」とスティムソンは言い切った。

それにもかかわらず、彼の主張に反して京都は爆撃目標リストに再登場し続けた。京都はすべての条件を満たしている、と将軍たちは言い張った。爆撃する必要がある、と。

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