また、井上によれば、個人は、地域社会などの「中間集団」を媒介にして、広い社会の姿を思い描くことができたが、「中間集団」が衰退し、それに代わるものが生み出されないとき、個人は自分と社会との接点を見失って、不安を感じるようになる。そのため、身近な家族か、または巨大な集団(国家など)への依存を強めていくという。
あいまいになる境界線
そして、マスメディアの発達が巨大な集団の目となる「世間」を飛躍的に拡大させたという。人々は、多様な個人になると思いきや、かえって「世間」というモノサシに引きずられるようになった。
井上は、「今日では、『セケン』と『タニン』ないしは『ヨソのヒト』とのあいだの境界線が、かなりあいまいとなってきていることは、否定できない。逆にいえば『タニン』ないしは『ヨソのヒト』の世界が、タニンのままにとどまらないで、『セケン』となりうる機会が、大はばにふえている」と主張した(前掲書)。
そうなると、自分の身内でも知り合いでもないが、マスメディアによって拡張された「世間」において、有名人も当然のように「世間」の住人としてカウントされることになる。そのため、「世間」のルールに従わない、「世間体」の悪い者は、「タニン」「ヨソのヒト」で済ますわけにはいかなくなるのだ。
ここにこそ、「世間」の名を借りて不貞行為を行った者を罰したくなるニーズ=現代におけるガス抜きとしてのバッシングが発生する根本原因がある。それゆえ、マスメディアの周辺の人々も拡張された「世間」の評判を先取りして、あらかじめリスクを摘んでおこうという振る舞いを身に付けることになる。不倫報道で「世間」意識を強化するのがメディアであれば、その強化で「世間」を内面化した人々の反応に忖度するのもまたメディアという循環構造ができている。
芸能人の不倫に対し、「不倫された側が文句を言うならわかるが、視聴者がとやかく言うことなのか」「そもそも芸能人のその手の話には興味がない」と感じる人も少なくないだろうが(というか、大半かもしれないが)、「世間」が拡張され、ガス抜きとしてバッシングが機能する以上、この現象は続くのだろう。
その一方で、近年、人々の間では、「過剰なコンプライアンス化」の裏返しとしての「健全化への欲求」が高まっている。社会学者のアンソニー・ギデンズなどが述べているように、現代においては絶え間ない選択と不確実性の中で、個人は自律性を発揮し、自らの感情や行動を適切にコントロールする能力がより強く求められるようになったからだ。



















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