20年に俳優の唐田えりかさんの不倫報道があり、民放のドラマが降板・差し替えとなり活動自粛に追い込まれたが、その後、Netflixのドラマ作品『極悪女王』などへの出演が報じられた。これが活動再開のモデルケースになっている。
こちらは不倫報道ではないが、19年に薬物事件で逮捕されたミュージシャンのピエール瀧さんも、Netflixドラマ『全裸監督2』が復帰作の一つとなった(逮捕当時、多くのメディアが配信停止や撮り直しなどで対応する中、Netflixは『全裸監督』の出演シーンをカットしなかった)。
不倫報道レベルではペナルティが生じない欧米
本来は個人的な事案である不倫と、法を犯す薬物を並列して語ることの難しさは一旦脇に置いておくとして……これらのいびつな状況は、日本特有のガラパゴス的な構造が大きく影響している。
すでに多くの識者が指摘していることでもあるが、そもそも欧米などの先進国と比較すると、俳優の不倫報道レベルで同様のペナルティは生じないことが挙げられる。
もちろん、俳優はドラマなどの出演料だけでは収入面で厳しく、ブランディングが重視されるCMや広告などへの依存が進んでいることがあるが、その背景には不倫などを個人の問題として片付けられず、何らかの社会的制裁が必要とする価値観――私的領域の問題が公的領域における評価を左右してしまう――による強い影響がある。
要するに、多くの人々は不貞行為を個人の私生活の問題として見過ごすことができず、不貞行為の当事者は「世間」からいったん身を引くのが自然だと考えているのだ。この不貞行為の発覚から社会的制裁への移行は、とてもシームレスであり疑問に思われることが少ない。
ここで重要になるのは、「世間をお騒がせした」というよく聞く謝罪の理由だ。道徳的な面で「世間」を裏切ったこと、それによって「世間」に悪影響を及ぼしたことが含意されているからである。
『「世間体」の構造』(講談社学術文庫)で、心理学者の井上忠司は、戦後に家族国家観イデオロギーは崩壊したが、「ソトなる『世間』の価値にコミットすることによって、ウチなる自分を見つめるという、わが国の人びとに特有な(略)構造の本質は、いっこうに変わってはいない」と述べた。
つまり、そこには独立した個人が寄り集まって構築され、そのあり方について絶えず議論が交わされるような西欧近代的な意味での「社会」は存在せず、あらかじめそこにあるものとしての「世間」が家族や仲間内などを通じて人々を常に支配しており、長らく対象化されることすらなかったのである。



















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