1812年5月、ナポレオンは60万人を超える大軍を率いてロシア遠征を開始します。
そして9月にはモスクワを占領したナポレオンでしたが、食糧不足による飢えにより撤退、やがてロシアの冬の寒さや感染症に加え、ロシア軍と農民ゲリラからの攻撃などによってフランス軍は壊滅的になり、遠征は大失敗に終わりました。
翌1813年、ライプツィヒの戦い(諸国民戦争)でプロイセン・ロシア・オーストリアに敗れたナポレオンは、ついに皇帝位を退き、地中海のエルバ島に流されました。
その後、1815年3月にエルバ島を脱出したナポレオンは、パリに戻ると再び皇帝となり、「百日天下」を取ります。しかし、その3カ月後にはワーテルローの戦いでイギリス軍とプロイセン軍に敗れて、退位を余儀なくされます。
これによってナポレオンは、南大西洋上の孤島セントヘレナ島に流刑となりました。
現代にも続く「自由」「平等」を広めた征服者
ナポレオンは、ベートーヴェンに尊敬され、失望されたことに象徴されるように、功罪相半ばする人物だといえます。
独裁者で征服者としてのナポレオンは、皇帝就任に絶望したベートーヴェンが予想した通り、国内ではナポレオン戦争を大義に自由を弾圧し、征服地では諸民族に対する抑圧政策を強化しました。そして何よりも、ヨーロッパ中を戦火に巻き込みました。
とはいえ一方では、フランス革命とナポレオン法典がもたらした「自由」「平等」そして「個人の尊重」という理念は、ナポレオン没後もヨーロッパから消えることはなく、現代にまで息づいています。
その意味で、ナポレオン法典が定められた意義は大きく、近代市民法の原理を規定したと意味づけられています。
ナポレオン自身、セントヘレナ島への流刑後に書いた『回顧録』の中で、「余の真の栄誉は40回の戦いの勝利ではなく…永久に生きるのは余の民法典である」という言葉を残しています。
ナポレオンはセントヘレナに流されて6年後に亡くなりましたが、その言葉は実現したといえるでしょう。
記事をマイページに保存
できます。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら
印刷ページの表示はログインが必要です。
無料会員登録はこちら
ログインはこちら



















無料会員登録はこちら
ログインはこちら