ナポレオンにとって「敵国」であるオーストリアに住んでいたベートーヴェンも、ナポレオンの自由・平等などの理念に共感し、ナポレオンを支持していました。そして、1804年に完成させた交響曲第3番の楽譜の表紙に、「ボナパルトに捧げる」と書いたのです。ナポレオンを讃える交響曲を作曲した、というわけです。
しかし、このベートーヴェンのナポレオンへの思いは、あっという間に失望へと変わってしまいます。ベートーヴェンが交響曲第3番を完成させたたった2カ月後に、「皇帝ナポレオン1世」が誕生したからです。
民衆たちの自由と平等を掲げ「フランス革命の申し子」だったはずのナポレオンが、絶大な権力を持つフランス皇帝の座に就いた──その事実を知ったベートーヴェンは、「彼もただの普通の人であったか。これからあらゆる人権を足で踏みにじり、野望のとりこになるだろう」と落胆したという回想録が残っています。
ナポレオンに失望したベートーヴェンは、交響曲第3番の楽譜に書かれた「ボナパルトに捧げる」の文字を削り取り、「英雄(エロイカ)交響曲」に書き換えてしまいます。
ナポレオンの絶頂と没落
皇帝となったナポレオンは、フランス革命の理念を広めるという大義のもと、ドイツ、オーストリア、スペインなどに攻め込み、ヨーロッパ大陸の広範囲を支配下におさめました。
当初は「絶対王政からの解放者」として各地の民衆に歓迎されたナポレオンでしたが、やがて民衆は「自由」「平等」の考えに加え、侵略者フランスに対する「ナショナリズム」をめばえさせることになりました。そして、ナショナリズムを知った民衆たちからは、皮肉にも「反ナポレオン」の動きが出てくるようになるのです。
1808年、ナポレオンが自身の兄をスペイン王に立てたことに対して民衆が蜂起し、スペイン反乱が起きます。フランス軍は、民衆が展開したゲリラ戦に苦しめられ、やがてスペインを追い出されてしまいます。
さらに、ナポレオンの没落を決定づけたのが、1812年のロシア遠征でした。


















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