ベートーヴェン(1770~1827)は、神聖ローマ帝国(現在のドイツ西部)のボンに生まれ、主にオーストリアのウィーンで活動した作曲家です。
一方のナポレオン・ボナパルト(ナポレオン1世・1769~1821)は、当時フランス領になったばかりの地中海のコルシカ島の生まれ。ベートーヴェンよりも1歳年上にあたります。
ベートーヴェンが生きた18世紀末から19世紀はじめのヨーロッパは、激動の時代でした。フランスで1789年に革命が起き、国王ルイ16世や王妃マリー・アントワネットがギロチンで処刑されます。
この恐ろしいギロチンにまつわるエピソードは、前回の「断頭台『ギロチン』は“人道的な処刑方法”だった?」で紹介しました。
オーストリアやプロイセンなどのフランス周辺の国々は、「民衆が王を処刑する」という前代未聞の革命が自国に波及することを恐れ、ひっきりなしに軍事介入を行っていました。
そうした状況で登場したのが、フランスの軍人ナポレオン・ボナパルトでした。
敵国の民衆にも支持された英雄ナポレオン
ナポレオンは、イタリア経由でフランスに攻め込もうとしていたオーストリア軍をイタリア遠征(1796~97年)で破るなど、名将として頭角を現します。
そしてブリュメール18日のクーデタ(1799年)を起こして政権を掌握すると、事実上の独裁体制を築いたのです。
しかし、ナポレオンは独裁者となっても、フランスの民衆にはとても人気がありました。それだけではなく、敵国や被征服地の民衆までもがナポレオンを支持していました。
ナポレオンが敵国の民衆からも支持されていた理由は、ナポレオンが自由・平等というフランス革命の“理念”を、絶対王政下のヨーロッパ各国に“輸出”してくれたからです。
ナポレオンは1804年3月にナポレオン法典(フランス民法典)を制定し、革命初期の「フランス人権宣言」(1789年)でも掲げられた「個人の自由」や「所有権の不可侵」などを明文化して、革命の成果を継承する姿勢を示していました。
同じ時代に生きたベートーヴェンも、ナポレオンを支持していた民衆の一人でした。



















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