山奥の「ミシュラン店」築いた女将の半生と「母みたいにならない」と家を出た娘が選んだ継承→時流に合わせた"経営改革"で昔話の世界を未来へ
嫁ぎ先で受けたカルチャーショック
その理由は、節子さんが1974年に、27歳でお見合い結婚して寺谷家に嫁入りした頃に遡る。姫路から嫁いだ節子さんは、芦津の暮らしにカルチャーショックを受けた。
「豆腐、味噌、こんにゃく。すべてイチから自分たちで作るんです。お餅ひとつ丸めるのにも、手のさま、手なりを見てしまう。おかずひとつ煮るにしてもお出汁をとる。おふとんをしまう動きですら、ぴしんとしている。生きることに知恵がありました。目にうつるすべてが新鮮でした」
また、小学校しか卒業していないような困難な境遇でも、折れずに明るく過ごす。芦津に生きる人たちの辛抱強さと心根の強さには非常に感銘を受けたという。そのなかで、義母から暮らしまわりのことについてとても厳しく指導を受けたが、節子さんがどんなことでも懸命にまっすぐ取り組むので、義両親や地域の人たちから信頼され、とても可愛がってもらったという。
地域へのリスペクトが根底にあり、節子さんは芦津の暮らしそのものをおもてなしの料理として提供することにする。毎朝山菜を摘み、豆腐を作る。すべて機械は使わず、体と手を動かして作る。
準備の時点で途方もなく手間暇がかかることを、丁寧に心をこめてやり抜く、と節子さんは決めた。この「生きる知恵」の価値を正当に評価してもらうため、それまで800円だった客単価を、コース仕立てにして3000円以上へと3倍以上に引き上げた。
そして、どうやったらお客様に喜んでもらえるのか、節子さんの「よそ者」視点ならではのアイデアを出した。たとえば、料理プレートに“パーンと割った”大きな板を、夏の器には竹を、箸置きやあしらいに枝の輪切りやヒノキの葉を、と森のものにとことんこだわる。
節子さんのアイデアは、従業員や地域住民がこぞって形にしてくれた。



















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