カメラマンを同行させているケースすらある…不祥事の【禊としての修行】を断る和尚の"言い分"
昨今では、そういった悲しいニュースも珍しくありませんが、おそらくテレビなどを通して私たちに見せている姿と本質的な自分の姿に大きな違いがあるのでしょう。顕在的な自己肯定感だけでは、どうにもならないことがあるのです。
よく、不祥事を起こした方が反省の色を見せながらなにかを成し遂げ、メディアを通じて再起を誓われたりしますが、私からいわせれば、そんなことで自分の心を変えられるのなら苦労はしません。
「反省するために座禅をさせてください!」
「間違いを犯した私を大愚和尚のところで修行させてください!」
そのような建前で福厳寺にいらっしゃる芸能人やスポーツ選手、企業の社長さんなどもたくさんおられますが、私は一貫してお断りしています。
全員がそうだとはいいませんが、大半の方々は「私は修行しました!」と得意げにカメラに収め、もう一度社会からの信用を取り戻したい――そういった算段で動いているからです。それこそ、最初からカメラマンを同行させている方もいらしたりします。
「その人の言っていることではなく、行動を見よ」とは、まさにこのこと。そのようなうわべだけの修行をしたところでその人の人格は変わりませんし、「そんなことのためにお寺を利用しないでください!」とお引き取り願うことが日常茶飯事です。
本当に自分の行いを見直したいと思うのであれば、黙ってやればいいのです。それをメディアやSNSを通じてアピールしている時点で、「自分を良く見せたい」という欲でしかありません。
謙虚なように見せて、じつは自惚れているという人が、とても多いのです。
本当に自信がある人は「自惚れる」ことがない
仏教だけではなく、心理学的にもいわれていることですが、本当に潜在的な意識の部分から自分に対して自信を持っている方は、そもそも自惚れません。
どこかに不安定な要素を持っている――例えば自分のどこかにコンプレックスを抱えているからこそ、それを克服しようと謙虚に努力するのでしょう。



















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