ちょんまげ→散切り頭で大混乱 朝ドラ『ばけばけ』変な髪型の武士が続出!文明開化の裏側
「武士でおるのは別に構わんし、いつまでやっててもいいけど、やるなら人の為になる武士やってよ。人の為になって、人に好かれて、人を幸せにする、それが出来んのならせめて、人に迷惑かけない武士やっててよ。人の邪魔にならん、せめて娘の見合いをダメにしない程度のね!」
トキがこう言いたくなる気持ちもよくわかるが、武士にとって髷を切るというのは、簡単なことではなかった。実際にも明治初期には、髷を巡る様々なトラブルがあったようだ。
強制力はなかった武士への「散髪脱刀令」
「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」
この有名なフレーズが象徴しているように、明治維新を契機に、日本人の生活や考え方は大きく変わった。そして、見た目も明らかに変化している。ちょんまげを切り、刀を捨て、着るものも和装から洋装へと移行した。
日本人のいでたちを大きく変えるきっかけとなったのが、「散髪脱刀令」である。明治4年8月9日、明治政府によって、次のような内容で発令された。
「散髪、制服、略服、脱刀トモ、勝手タルベキ事」
髪も服装も、刀を持たないことも、勝手にやればよい。つまり、髷を結わず散髪してよいし、士族でも帯刀しなくてよい、ということになる。
「散髪脱刀令」という響きから、強制的なものだったと誤解されやすいが、実際のところは「自分勝手にやればよい」というのが政府の発令だった。強制でないだけあって、その後、明治政府側の指導者や官僚たち、天皇自身が洋装して散髪したものの、民衆に定着するまでには時間が必要であった。
大阪府大参事の渡辺昇が明治5年9月に「頭髪に関する論達」を交付して「頭部保護のために散髪せよ」と促した。それをきっかけに、散髪普及のための県令が出されて、徐々に浸透していくことになる。
だが、ちょんまげをただ切ればいいのか、ということで、おかしな髪型も続出。めちゃくちゃに散髪した者や、河童のような髪型をする者や、逆に中央にだけ髪を生やす者などが出てきて、収集がつかない状況にも陥っていたようだ。
現在の福島県にあたる地域では、頭髪を前半分だけそって後ろのほうを残す「半髪者」には税金をかける、という案まで出たという。ほとんどコント劇のような展開である。


















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