台湾の歴史認識と日本の保守界隈との親和性。「心地よい幻想」で成り立つ日本と台湾の関係は危うい

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多様な歴史解釈を前提とする台湾ならではの“配慮”だといえる。また2つの歴史観以外にも、台湾の教育が世代間でその方針が大きく異なることも台湾が「共通した戦後像」を持ちにくい要因となっている。

8月末、夏の熱気に包まれた台北で「終戦80年:台日交流の回顧と展望」というシンポジウムが開かれた。筆者も登壇し、李登輝政権期(1988〜2000年)の日台外交における「親日イメージ」の形成とその遺産というテーマで発表した。

李登輝が作り出した「親日」の影響

李登輝(1923〜2020)は、総統に就任後、それ以前の蒋介石、蒋経国親子が構築した「反共」を基盤とした日台の文化交流チャンネルと並行して別のチャンネルを構築した。日本語に堪能な駐日代表を続けて任命し、政界・官界・財界・学界を横断する人脈を広げるため「アジア・オープン・フォーラム」を12年間続け、日台の関係強化に努めた。

日本は1972年に中華民国(台湾)と国交を断絶し、現在も非政府間の実務関係が続いている。中国からの圧力も強まる中、国家間で通常行われているような“正攻法”の外交は難しい。そんな状況で李登輝がとった方法は、日本統治時代のエリート教育機関、台北高等学校で日本の教養教育を深く体得した自らを「台湾のスポークスマン」と位置づけ、日本社会に台湾を発信していくことだった。

李登輝は日本の論壇で影響力を持つ文化人たちと幅広く交流し、その存在感を示した。「国民的作家」と言われる司馬遼太郎の『台湾紀行』や、当時若者世代に絶大な人気を誇った『ゴーマニズム宣言』の著者である小林よしのりの『台湾論』に自ら登場したことは象徴的だ。

これらの作品を通じて日本の読者は日本社会で長らく“忘れ去られていた台湾“を再発見することになった。日台がある一時期同じ歴史を共有していたこと、そして日本の隣に新興民主主義国家の友人がいることである。

李登輝は自らの発信の中で日本国内の左右のイデオロギー問題をひとまず脇におき、日本の台湾統治を肯定的に“評価”した。このことは、日本国内の台湾独立派と日本の保守右派勢力の結託を強固にしたが、それと引き換えに、台湾の民主化が進むにつれて台湾の進歩的な価値観に共感を持つようになっていた日本の革新(リベラル)左派が、台湾を知ることへの動機を失わせた。

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