「阪急」隆盛の背景は多角化だけでなかった! 社史が描き出す知られざる創業期の大転換点
創業時の箕面有馬電気鉄道の苦境を救ったのは、宝塚線や箕面線の成長でもなければ、沿線の宅地開発でもない。その答えは「(前略)阪神直通線の計画が暗々裡に進行しつつあった」と『50年史』の12ページに記されている阪神直通線こと今日の神戸線の開業である。
箕面有馬電気軌道は1913(大正2)年2月20日に十三-門戸(もんど=現在の今津線門戸厄神駅付近)間の線路敷設特許を得た。門戸-神戸間は灘循環電気軌道が線路敷設の特許を得ていて、開業後、両社は連携して阪神間の輸送を行おうと考えていたという。
ところが、灘循環電気軌道の主力行であった北浜銀行が1914(大正3)年に破綻すると、箕面有馬電気軌道もまた経営に行き詰まり、ついには線路敷設の特許の譲渡を阪神電気鉄道に持ちかけるほどの苦境に陥った。こうなると箕面有馬電気軌道のもくろみは崩れ去ってしまう。
存亡をかけた新線建設
箕面有馬電気軌道は阪神電気鉄道と交渉を開始し、灘循環電気軌道の買収の承諾を得る。
「当時、当社は資本金僅かに550万円(筆者注、現在の貨幣価値に換算して約64億7200万円)、内、払込金385万円(同約45億3000万円)であって別に200万円(同約23億5300万円)の社債があり、取引銀行であった北浜銀行はすでに破綻し、株式市場は暴落のどん底に達するという状態であった。
従って灘循環線(筆者注、灘循環電気軌道)を買収してもその建設資金の捻出はすこぶる難問題と考えられ、しかも阪神直通の計画線は悉(ことごと)く人家の疎らな山手の地域を通過する予定であったから、阪神電鉄当局はさして脅威も感じなかったらしく、重役会の決議に於て、当社の交渉を諒とし、灘循環線は箕面有馬電鉄(筆者注、電気軌道の略称であれば電軌が正しい)において買収経営するも決して異議ない旨を回答して来た。」(『50年史』14ページ)
箕面有馬電気軌道の経営陣は1916年4月28日に臨時株主総会を挙行し、灘循環電気軌道の買収に関する討議を行う。経営陣は灘循環電気軌道を14万8613円39銭(現在の貨幣価値に換算して約1億4500万円)で買収することを提案し、阪神直通線を1917(大正6)年12月末までに開業させると説明する。
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