「阪急」隆盛の背景は多角化だけでなかった! 社史が描き出す知られざる創業期の大転換点
阪急電鉄は1907(明治40)年の創立当初、箕面(みのお)有馬電気軌道といった。同社は1910(明治43)年3月10日に今日の宝塚線である梅田-宝塚間と、箕面線である石橋-箕面間との同時開業を果たす。開業に先立ち、同社は沿線の宅地開発にも乗り出した。『50年史』では次のように記されている。
「創立当時、当社は沿線各地に25万坪の土地を買収したが、明治42年(1909年)3月、先ず試みに池田に2万7000坪の土地を買収して住宅経営を始めることとし、その準備完了をまって、明治43年(1910年)6月より売出しを開始した。
土地の分譲、地所家屋の月賦販売は、関西においては実に当社をもって嚆矢とするものであり、先駆者としてのこの事業は、一般業界に異常な注意を喚起したのである。而(しか)して池田における土地住宅経営が相当の成績を挙げたので、引続き箕面村桜井の地所5万5000坪の売却を開始することとなった。
こうして土地家屋経営の第一期ともいうべき試練の時代は比較的好調に進み、当社ではこの事業の前途に対して、十分な確信を得たのである。」(『50年史』10ページ。一部数字は編集部が算用数字に変換、以下同)
『写真編』には「毎期営業成績表」が掲載されており、阪急電鉄の財務状況をつぶさに確認できて都合がよい。宝塚線と箕面線とが開業して迎えた1911(明治44)年度の財務状況は、上期と下期とを合わせて収入が84万4087円(企業物価戦前基準指数によって2014年の価格に換算すると約10億1800万円。以下同)、支出が48万6335円(約5億8600万円)で、利益金は45万1756円(約5億4700万円)であったという。これらの数値には鉄道だけでなく関連事業のものも含まれる。
解散するなら1日でも早いほうがいい
収入から支出を差し引いた金額を利益金が上回っている点には注意が必要で、今日流に言えば売上総利益を指しているのかもしれない。1911年度の売上高総利益率は53.5%となり、極めて優秀な数値となる。
とはいうものの、箕面有馬電気軌道の経営陣にとっては枕を高くして眠れない日々が続いたに違いない。株主の関心をつなぎとめておかなくてはならなかったからだ。この結果、利益金の51.1%に当たる23万1000円(約2億7800万円)を配当金に費やしていた。
箕面有馬電気軌道は日露戦争後の不景気によって設立が危ぶまれ、「(前略)大勢は、有馬温泉や箕面公園のような山地の貧弱な沿線に電車を敷いたところで到底見込みなし、という意見が強く、株主は会社を解散して失権株(筆者注、11万株中、5万4104株に達していた)の証拠金を分配せよといい、解散するならば一日でも早い方がよい、と匙(さじ)を投げる委員が出る始末であった」(『50年史』3ページ)ため、株主への配当を疎かにして資本金を引き上げられてしまったら、鉄道事業も宅地開発もその時点で打ち切りとなる可能性が高かったのである。
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