三谷幸喜脚本で第1話から圧倒的情報量!菅田将暉主演《もしもこの世が舞台なら、楽屋はどこにあるのだろう》が昭和・令和世代で賛否両論のワケ

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本作のもうひとつのポイントは、昭和の時代背景だ。当時の街なみや社会情勢、生活習慣などの小ネタ、当時の若者たち特有の熱さといった昭和らしさは、演劇になじみがなくても、“昭和あるある”として楽しめる作りになっている。

そこで思い起こすのは、宮藤官九郎脚本の『不適切にもほどがある!(ふてほど)』だ。伝え方は異なるが、両作に共通するのは、スマホとSNSが人々を支配する、窮屈なコンプラ社会になった令和への昭和からのメッセージだ。

『ふてほど』は、令和にタイムスリップした昭和のおやじが、令和社会のさまざまな違和感に対する不満や怒りを、わかりやすく言動でぶつけていた。

それとは対照的に、『もしがく』は昭和の若き主人公の内面にくすぶる思いを、演劇を通して社会に投げかける。そこには、昭和の若者の熱い生き様を通した、令和社会のあり方への問いかけがある(これからそうなっていくと思われる)。

宮藤官九郎『ふてほど』よりも視聴者を選ぶ

『ふてほど』が社会的に話題になった要因のひとつは、そのわかりやすさにある。一方で『もしがく』は、第1話の主人公の言動が象徴的だが、万人に理解されないわかりにくさこそ美学であり、そこに人それぞれの感じ方や考え方が生まれ、それが社会を変えていくという、まさに演劇そのものの世界観が全面に押し出されている。

だから、本作はかなり視聴者を選ぶドラマになるかもしれない。令和世代をはじめ、一般層にとってはなじみやすくはなく、彼らを一歩引かせてしまう温度感の物語になっているとも思う。

一方で、演劇時代からの三谷コアファン層と昭和世代の一部の年配者は、物語に込められた熱量や暑苦しさを楽しみ、心を熱くするのではないだろうか。

次ページ第2話以降の展開に期待している
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