「銀座アスター」はなぜ100年も愛され続けてきたのか? "食のエルメス"を目指す老舗の秘密
そのために、新卒を主体として採用し、技術や理念以外に銀座アスターの文化も学ばせた。見事にそれは実を結び、社内が1つの方向を向いた。経営も順風満帆だった。
その間、アスター麺などの名物料理がいくつも作られたが、喜久子氏がいちばん感銘を受けたのが、物のない頃の中国で振る舞われた「満漢全席」だった。連綿とつながる中国料理の文化の集大成として、それは感銘に値するものだった。
そこで、満漢全席を銀座アスター流にアレンジした「名菜席」を完成させることが1つの目標となった。見事にそれは実現され、特別な日の楽しみとして、銀座アスターの看板料理となっていった。長らく続いてきた名菜席はコロナ禍でいったん中止していたが、100周年を機に来年復活させるという。なんとも楽しみである。
「今の時代はインターネットなどで容易に知識を得ることができますが、当時は足で歩いて集めるしかなく、それを30年続けてきたことが、うちの会社がほかとは違う大きな点かもしれません。自分たちで自前のものを作る、自前の価値観を創る、そういう考え方でやってきました。その考え方が今でも息づいているのです」(郁氏)
当時、マクドナルドやケンタッキーフライドチキンなどが日本でも広まり、飲食業が初めて外食産業として考えられるようになった。それまでの飲食業は、個人事業主の店舗ばかりだった。もともと徒弟制度のようなものが好きではなかった2代目社長はすぐに社風を変え、現代的な会社へと舵を切っていく。
昭和50~60年代にはまだまだ国内人口が多く、働き手も客もあふれていて、大型の宴会用の店が堅調で、経営は右肩上がりだった。その後に訪れたバブル期も「それほどの影響はなかったのですが、今思えばやはりバブルだったんだなあと思いますね、客単価が総じて高かった。ただ、会社としては不動産を買いあさるようなこともしなかったので、バブル後もそれほど苦労することもありませんでした」(郁氏)。
この四半世紀にも苦難は何度もやってきた
3代目である女性社長・郁氏に代わって24年が経つ。その間にもいろいろなことがあった。
まず、平成20(2008)年のリーマンショック。売り上げがどんと落ち、影響は少なくなかった。景気に左右される人の行動というのは恐ろしいものだと、つくづく思わされたという。
平成23(2011)年の東日本大震災のときには、多くの人が災害で苦しんでいるときにレストランを営業していいものだろうかと、随分悩んだという。売り上げは一時落ちたが、すぐに回復したそうだ。
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