「銀座アスター」はなぜ100年も愛され続けてきたのか? "食のエルメス"を目指す老舗の秘密
「百貨店の中にもレストランを出してくれ」という要望が多くなっていき、昭和30年代からは百貨店に出店する時代に入っていく。いわゆる高度成長期に、家族そろって百貨店に食事しに行くという、幸せな昭和文化の担い手になったのである。
それはそれで大いに成功したが、次第に大手の食品会社もその枠に参入するようになる。数のうえでは、どうしても大企業にかなわない。そこで、自分たちの軸足をどこに置くのか、悩み考えたという。
研修旅行が作り上げた料理人たちの“背骨”
そうして出した結論が「やはり本物の中国を見てこなければいけない」という考えだった。昭和39(1964)年、喜久子氏が広州交易会に参加し、中国へ研修旅行に出かけて行った。
まだ正式な国交が樹立される前で、中国は文化大革命の真っただ中。そこにあった中国は、今では想像もつかないような凄惨な世界。価値のあるものがすべて壊された中国だった。
それでも、昔から連綿とつながれてきた食文化のすばらしさの片鱗を肌で感じることができたという。何か自分たちが懸けるものを見つけたいと必死で思っていたときだったので、滅びゆく中国料理を勉強して保存したいという強い情熱に駆られた。
広州交易会には昭和47(1972)年に国交が正常化してからも参加を続けた。国交が正常化してからは、自社での研修旅行も毎年実施。多いときには年8~10回、サービス陣も含めていろいろな地へ出かけ、味を探求して歩き、出会った料理を1点ずつ写真に撮ってスクラップし、説明を添えて貴重な資料として蓄積していった。
インターネットのない時代に探求をやり遂げたという事実もそうだが、その努力を共有したということで社員の心がつながっていった。おのおの自信も持てるし、いい意味での競争心も芽生える。10年、20年、30年とそういう状態をくり返してきて、銀座アスター魂のようなものが造られたのだ。この研修は新型コロナ禍まで、50年近く続いたそうだ。
普通の中国料理店であれば、出来上がったシェフを連れてきてあてこめばいい。ただ、それを複数店舗の店でやると、バラバラな考えに任せた料理になってしまう。それでは「銀座アスターの料理」にはならない。
「研修旅行の真意としては、各料理人が“背骨”となる原点の価値を知って、自分の中で消化して蓄積したうえで、アウトプットできるようにならなければならないと考えました。そうしたトランスレーションする力みたいなものがないと、企業としては生き残れないと思ったのです」と郁氏は言う。
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