「銀座アスター」はなぜ100年も愛され続けてきたのか? "食のエルメス"を目指す老舗の秘密

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中華街で腕利きといわれたコックを招聘して営業を始めた。しかしその後、戦火が激しくなり、店を営業するのもままならなくなってきた。食糧統制も厳しくなり、次第に料理人も戦争にとられていった。

それでもなんとかケーキを焼いてみたり、配給のコーヒーをおいしく提供したいと、水量を半分にしてデミタスにして出してみたりと、さまざまに工夫を凝らし、銀座を楽しむ一部の客層を相手に細々とやっていった。しかし、いよいよ爆撃がひどくなり、疎開地で終戦を迎える。

焼け野原になった銀座に「この土地は銀座アスターのもの」と手書きで書いただけの看板が立っているさまを見た、まだ女学生だった先代夫人の喜久子氏(現社長の母)が、「このままでは、うやむやにされてしまう」とひどく心配し、急遽仮店舗を作り、なんとか営業を再開したのだそうだ。

「点心のアスター」が広まった意外なきっかけ

銀座の土地が細長いので、半分で寿司屋をやったりと工夫しながら、お客さんも少しずつ増えていった。昭和20年代も半ばになると、銀座だけでは手狭になり、日本橋高島屋の1本裏に土地を購入した。

実はこの土地、居住スペースが足りないからという理由で買い求めたのに、初代の彦七氏は凝り性な人で、物のない時代に松やヒノキなどの高級木材をどこかから手に入れ、数寄屋風のこじんまりした粋な建物に仕上げた。住まいにするはずだったがここで何かをやったほうがいいのではと、営業用に使用することになった。

最初、日本料理店を始めたが、最終的に中国料理のお座敷として2号店の役割を担うことになり、大いに繁盛した。

そうこうするうちに、戦後の景気も上向きとなり、食べ物にもお金をかけられるようになってくると、百貨店からシュウマイなどの点心を卸してほしいというリクエストが高まり、昭和28~29(1953~1954)年あたりに日本橋白木屋(のちの東急百貨店日本橋店、現・コレド日本橋)で点心を販売することになった。瞬く間に需要が高まり、日本橋髙島屋などからも注文が入るようになり、ちょっとしたブームになった。

すると、先代夫人の喜久子氏が先頭に立って宣伝部を作り、シュウマイに「アスターちゃん」という名前のキャラクターを付けて売り出すなど、キャンペーンを打った。喜久子氏は日本女子大学の住居学科出身で、デザインの心得があったこともあり、包装紙類もすべて担当した。

また、当時の人気番組「名犬ラッシー」のスポンサーをしたところ、それが視聴者層にぴたりとはまって大ヒットし、「点心のアスター」として有名になっていく。今も銀座アスターの屋台骨を支える点心の人気は、ここから始まったのだ。

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