傘寿を牢獄で迎えたアジアの元指導者2人/アウンサンスーチーとドゥテルテ/キャラは違えど、いまも国家の命運握る

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アウンサンスーチーは、「ビルマ(ミャンマー)建国の父」アウンサンの娘としてヤンゴンで生まれたが、独立運動を主導した父は2歳の時に暗殺された。駐インド大使だった母とともにインドで過ごし、英オックスフォード大学で学んだ。

1988年3月、母の看病でビルマに戻った時に、長年独裁体制を敷いたネウィン政権に抗議する学生運動に押し出される形で民主化運動のリーダーとなった。その後、国軍からたびたび軟禁され、弾圧が続いた。1991年にはノーベル平和賞を受賞し、世界の民主化運動のアイコンとなった。

「貴婦人」のスーチーに対し、「マッチョ」なドゥテルテ

他方、ドゥテルテはアジア太平洋戦争で日米が激突した直後のフィリピン中部レイテ島で弁護士の父、教師の母の次男として生まれた。父はダバオ州の知事も務めたが、本人は自他ともに認める不良で、高校を2度中退し、大学を卒業した時には27歳になっていた。

司法試験になんとか合格し32歳でダバオ市の検察官に採用された。ビルマで民主化運動が盛り上がり、アウンサンスーチーがその旗手となった1988年、ダバオ市長に当選した。

当時、ダバオは麻薬組織や共産主義勢力が跋扈し、「フィリピンで最も治安の悪いまち」と呼ばれていた。それを、ドゥテルテの剛腕で回復させた。その過程で司法手続きを経ずに容疑者らを殺害する「超法規的殺人」が相次いだ。

政治家2世で絶頂から投獄にいたる経歴に共通点はあるものの、2人のキャラや印象は大きく異なる。片や敬虔な仏教徒で軍政の弾圧にも凛として立ち向かう貴婦人のイメージに対し、カトリック教徒の家庭の出身ながらローマ教皇に悪態をつき、神を「馬鹿者」呼ばわりするマッチョなおやじといった風情だろうか。

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